ともかく「Eclipse/Blue」の映像がよい。

最初は、あーきれいな映像だなー、凄げー、くらいに見ていたんですが、後半少女が登場したあたりでとてもいたたまれない気持ちになった。なにこれ。ピュアすぎる。あたしみたいな俗物にはピュアすぎるよ……。なんでこんなにピュアなんだよ……。かんがぇてみた……。

ようやく

きもちわるいちょうぶん

純粋さの象徴としての少女

少女である。やはり少女である。この白ワンピースの少女が純粋さの象徴であり、発信源である。なんてことをいうとソノ方面から叩かれそうだが、まあ待ってくれ。ひとまず、私はペドフィリアではない。メガネでショートカットでつり目で三白眼で猫背でBMI値21.5でPAGE BOYの服を着てALL STARのスニーカーを履いているドラマーの成人女性が好きなごくふつうの成人男性だ。それを踏まえて再度映像を見てほしい。美しい映像のなかで踊る顔の見えない白いワンピースの少女、というあざといにもほどがある記号を感じてほしい。そうした記号を、純粋さの象徴として読みとることはそう不思議な感性ではないはずだ。

そう、私は少女を見ているのではない。少女を介して純粋という概念を感じているのだ。高校時代の哲学の授業をかすかにおもいだしながらプラトンの言葉を借りるならば、純粋のイデアである。

光が持つふたつの特性

光はふたつの特性を持っている。ひとつは光それ自体としての光。直接的に我々に光として認識される光だ。身近な例で言ってしまえば蛍光灯だ。そしてもうひとつは照らしだすものとしての光。光に照らしだされた対象は我々の眼に映り、視認される。そのとき光は「対象への視認を可能にしているもの」として間接的に認識される。

光と少女の融合

映像では、少女は常に光に照らしだされている。Eclipseという言葉からもわかるが、それは「光としての少女」という演出だろう。つまりこの映像において少女は光によって照らしだされており、かつ擬似的にではあるが光それ自身である。映像では、少女上で、ふたつの光が同居しているのだ。

さて、少女は純粋の象徴でもあった。ということは少女と同化している光は擬似的に純粋の象徴になる。したがって、少女を見ること=直接的および間接的に光を見ることは、1+2の三重の仕方でもって純粋を感じることになるわけである。

この純粋の三重性こそが、この映像から発せられるいたたまれないピュアピュアピュアさの原因のひとつである。

到達不可能な純粋への擬似的な到達

ピュアピュアさの原因はそれだけではない。

純粋とはなにか。純粋とは何とも交わらずただそれ自身であるものである。それは我々の認識すら不純として相対化する。であるからして、通常であれば私が少女を介して純粋に到達したその瞬間に、純粋は私の認識という不純物よってカギカッコつきの「純粋」になってしまう。そのため我々が純粋に到達することない。だからこそ純粋は無限に純粋でありつづける。

それでは光を介した場合はどうか。前述のとおり、純粋の象徴は少女であり、光は擬似的に少女であるにすぎない。したがって、少女という純粋の象徴に擬似的に変態した光を介して見た純粋は擬似的な”純粋”であり、純粋と似たものでありながら純粋ではない。しかしながら、その”純粋”は純粋でないがゆえに、我々の認識をゆるし、「”純粋”」へとは変質しない。また、”純粋”という認識は純粋ではないがゆえに純粋を「純粋」へと変質させない。”純粋”は擬似的であり不徹底であるからこそ、概念のカギカッコへの次元低下を招かないという点で「純粋」よりも高次に純粋側にあるのだ。

まとめ

  • 光の少女は三重の意味で純粋
  • 光の少女は純粋に対して不純な「純粋」ではなく、純粋に対して不純ではない”純粋”をはらんでいる
  • なにいってるんだこいつ

ここまでわかりやすい記号として少女をもちいましたが、そのまえから登場している女性ももちろんその匿名性でもってピュアピュアー

さてさて、いま流行のプロジェクションマッピングですが、豪華絢爛方向じゃなくてこういう演出もできるんだよなー、とあたりまえのことに気づいたのでした。東京駅の映像が中止になって歯軋りしたひとはこの映像作品をみて癒されてください。

投稿日:2013年02月07日