物理的に固定される「製作者の意思」

音楽作品を理解する際、製作者の意思というものが尊重されることが多い。たしかに、曲をつくる場合、まず意思がある。意思なしには音楽作品は存在しえない。作曲というのは何らかの意思を音として具現化する作業のことだ。何もない空間に突然音が置かれるわけではない。はじめに意思でもって「こうしたい」という構図が描かれ、それを元に曲が形づくられていく。たとえ作曲者が意思を排除しようとしても、意思を排除する、ということを考えた時点でそこには「意思を排除する」という意思が誕生してしまう。また、私が歩く音を誰かが録音して発表したとしよう。それは私の意思とはまったく関係のない出来事ではあるが、「当事者の意思がふくまれない音楽」という録音者側の意思がそこにはある。以上のように、構造的に音楽作品には制作者の意思が先立ちざるをえない。

それではその制作者の意思というものはどこからやってくるのだろうか。安い言い方をすれば、制作者の「人生」からだ。クラシック音楽が好きだから。新しい音楽をつくりたいから。モテたいから。たくさん売りたいから。おのおのの理由には、おのおのの「人生」が見て取れる。いうまでもなく「人生」は個人だけで完結するものではない。人格や考えかたの形成は、環境の影響を常に受けつづけている。環境は製作者自身からみて変化しつづけているし、その環境自体も変化しつづけている。「人生」は常に更新されつづけている。

それはつまり、意思も更新され続けているということである。作品に先立つ意思が更新されれば、当然その後の作品の形も更新される。

ではどの時点の意思を「製作者の意思」とすればよいのだろうか?もっともそれらしいのはマスタリングを経てデータとして完成したとき、あるいはCD作品としてパッケージングされたときだろうか。物理的に更新不可能になった時点での意思を「製作者の意思」とでもしておこう。

無限に膨張し続ける「製作者以外の意思」の存在

しかしデータとして完成されたあとも、意思は更新されつづける。それは「製作者以外の意思」という形でだ。作品として一度固定されたあとに付加される意思である。

たとえばレコード会社であれば「たくさん売る」、「たくさんのひとに知ってもらう」、「ミュージシャンの意思を尊重する」などの意思が考えられる。それはイベントの開催や、あるいは広報を一切行わないといった形であらわれる。時が経てばレコード会社からしたその作品への意思はもちろん変わり、それは廃盤やリマスタリング盤の発売という形で見てとれる。

聴き手であれば、音楽を聴いて泣いたり、怒ったり、飽きたりするだろう。音楽作品を聴いて心を動かした時点でその作品に対する何らかの意思が発生する。それは今日の天気や恋人の有無などという直接的事象に結びついた感情かもしれないし、あるいは全く外の世界とは関係なく音から想起されるものかもしれない。たとえばそれを批評という形で具体的に形にしたとしたら、「批評したい」という意思がその聴き手視点でその作品に付加されていることに他ならない。直前に聴いた作品によっても印象は変わってくるだろう。逆に「毎回おなじ感覚で聴けている」としたら、それは音楽を「聴いていない」といえるだろう。

聴き手のなかには製作者の意思を読み解き解釈するものもいるだろう。その聴き手Aが想起した「製作者の意思」はその聴き手にとってまちがいなく大きな意味をもって「製作者以外の意思」になる。また、その解釈を別の聴き手Bが受け取れば、聴き手Bの作品に対する意思は変わってくるだろう。さらに聴き手Bが聴き手Aの解釈に反応することで、聴き手Aにとっての作品に対する意思も変わるだろう。たとえば自分の解釈に相手の解釈を加えるような形であれば「製作者以外の意思」は膨れあがる。また、以前の解釈を破棄する形になったとしても、「意思が変わった」という変遷履歴が刻まれることで「製作者以外の意思」は膨れあがる。そうやって無制限に膨張していく。

ここまでお読みいただければわかるように、「製作者以外の意思」もまた更新され続けている。製作者以外の「人生」も更新され続けているから、これは当然だろう。

そしてこの更新され続ける「製作者以外の意思」には、製作者の意思もまた含まれる。物理的に更新不可能な「製作者の意思」が固定された時点で、製作者の意思は「製作者の意思」からは切り離される。その後いくら製作者が自分の意思を語ったところで「製作者以外の意思」はふくれあがれど、物理的事象として固定された「製作者の意思」は変わらない。たとえ語った内容が当時の意思だったとしてもだ。そもそも製作者はひとりではないし、たとえそのひとりの意思でさえ「製作者の意思」は大多数の「人生」が複雑にからまって構成されているため、個人がすべてを把握することは極めて困難だ。「製作者の意思」には製作者が想定していない「意思」も含まれている。そういう意味で「製作者の意思」というものは、「製作者」という複雑に可変的な群にとっての意思であって、製作者ひとりひとりからすれば「他人」の意思である。

到達不可能なふたつの「意思」

「製作者の意思」は物理的に作品に固定されている。こう書くと「製作者の意思」を捉えることがその作品を正しく理解することだと思えてくるかもしれない。しかしそれには大きな問題がある。「製作者の意思」を「製作者」以外が理解するのは不可能だということだ。「製作者」は我々個人にとっては常に「他人」であるため、「製作者の意思」へは誰も到達しえない。

「製作者の意思」を理解しようと我々が考えをめぐらすとき、そこには「「製作者の意思」を理解しようとするという製作者以外の意思」が発生し、「製作者の意思」への到達を邪魔する。この「製作者以外の意思」を排除しようとしても、「「製作者以外の意思」を排除しようとする製作者以外の意思」が発生する。「製作者の意思」を想定しようとするその行為自体が「製作者以外の意思」となって「製作者の意思」への到達を阻害するのである。

また逆に、「製作者以外の意思」を正しく理解するという方向からの「製作者の意思」への到達も困難を極める。「製作者以外の意思」は「製作者以外」という総体によって常に更新され続けているからだ。

結局「製作者の意思」だろうと「製作者以外の意思」だろうと、「製作者以外の意思」によって更新され続ける限り、到達不可能な地点だといえる。

音楽と我々の「生きた」関係

ここで私は「だからそういうことは無駄だからやめろ」といいたいわけではない。

音楽作品と我々の関係は、「音楽作品」があって、我々がそこに近づいていくという単純な構造ではないということだ。音楽作品は「地点」ではない。音楽作品は我々の存在で成長し続ける線であり、面であり、立体であり、高次元体である。そしてそうでなければ音楽作品はただの音であり、死んでいる。我々が触れ続けるからこそ音楽作品は生きた音楽作品足りえる。音楽を聴くという行為は、物理的に固定された「死んだ意思」を、我々の「生きた意思」によって蘇らせ「生きている意思」にする行為である。そしてまた、我々が「生きている意思」に触れることによって、我々のなかの「死んだ意思」を蘇らせ「生きている意思」へとする行為である。音楽は我々によって生きているし、「音楽」もまた我々によって生きている。

音楽作品を「理解する」ということは、こうした「生きた関係」を認識して音楽との相互関係を肯定的に保ち続けることによって成されるのである。

音楽批評で深まる「理解」

音楽批評を残すということは、ある音楽作品に対する自分の「意思」を物理的に固定する、すなわち「殺す」行為である。しかし自らの手で殺した「死んだ意思」は、自分自身と読者の「生きた意思」によって「生きている意思」へと変化する。そして音楽批評は「音楽作品」という総体に組み込まれ、音楽作品とともに「生き続ける」。音楽批評は―それを公表するかどうかはべつとして―製作者の意思と自らの意思を一体化させる行為であり、音楽作品への強い「理解」へと繋がる、もっとも能動的な聴き手側の行動なのだ。

というわけでは私はこれからも自由に音楽を語っていきたい。もう少し、姿勢をよくして。しゃきーん。

投稿日:2012年11月15日