「音楽はストーリー以下」を嘆く人たち

もはや説明不要の佐村河内氏のゴースト作曲の件だが、発覚当時以下のような発言をツイッターで見かけた(無断引用うんぬんという本論とずれた批判を受けないためにリンクは外してある)

もし佐村河内氏の作曲問題で、いままで曲をすばらしいといってた人が、曲の評価も下げたり見向きもしなくなったとしたら、それがだまされたという気分に基づくとはいえ、人々はストーリーを聞いていたにすぎず、音楽を聴いていないってことを証明することになりますね。音楽はストーリー以下だと。

その通り。何度でも言う。音楽は音楽だけを聴くものではない。それは否定的な意味でも、肯定的な意味でもない。そうあらざるを得ないという事実だ。純粋な“音楽”に対しては、作曲者や、聴いている我々自身でさえも不純物であって、それが介在する時点でもはや音楽とそれ以外の付随物(ここではストーリー)の関係を切ることはできない。

この件についてはこの記事で取り扱っているし、また改めて記事を書きたいと思ってはいるが、とはいえその話をここでするつもりはない。私が気になったのは「音楽はストーリー以下」という表現である。

冒頭の発言は、作品のなかに音楽とストーリーという要素を見出している。そして発言者のその他の発言をあわせると、どうやら「ストーリーの有無で評価が著しく上下するのはおかしい」という意味のようた。つまり「音楽はストーリー以下」という事態は嘆くべきものだとしている。本発言以外にも、騒動が起きた当時に同様の発言をいくつか見た。あくまでストーリーは音楽にとっての副産物であって、音楽を音楽として楽しむことが本来の姿だ、というような主張だ。

現代音楽に見る音楽とストーリー

ジョンケージ

それでは、この「音楽はストーリー以下」という発言に関して少し考えていこう。

作品における音楽という要素とはなんだろうか。それはまさに音そのもので、楽器やスピーカーから出るその集合だったり、音源に記録されているデータだったりする。あるいはもう少し広く、アートワークや歌詞も含めていいかもしれない。

ストーリーはどうだろうか。今回の例では誰が作ったか、その人がどういう人か、ということがストーリーと言われている。それにならえば、まず関係者が誰であるか、ということは全てストーリーになる。そして、音楽が世に出るまでの、または世に出たあとの情報、すなわちいつ出たか、どういう経緯で作られたかという情報もまたストーリーになるだろう。

さて、ここである音楽ジャンルに焦点を当ててみよう。現代音楽である。現代音楽について、青山学院大学の広瀬准教授は下記のように語っている。(*1)

(……)「現代音楽」というジャンルで総称される音楽は、19世紀的な音楽語法に対する過激なまでの挑戦、という側面を持っている。(……)その成立過程からして基本的に聴き手を排除する構造を内に併せ持っている。

つまりわれわれが暮らす現代に近くなればなるほど、それが作曲された音楽のバックグラウンドに関する情報は多くなる。作曲家自身が豊富に遺した言葉が、金科玉条のように演奏家・聴き手を縛ることもあるだろう。

現代音楽は排他的で“非音楽的”であるが故に、聴いたり解釈したりするにあたって作品の思想的な背景が重要になってくる。聴き手はその背景を、作者がどういう音楽的推移からこの作品を作ったのか、作品に対してどういう言葉をつづり想いを語ったかを考えながら紡ぎだしていく。そう、すなわちそれはストーリーによって成される。

現代音楽のひとつの極点が、広瀬氏も例に挙げているジョン・ケージの《4分33秒》だ。この曲は4分33秒何も演奏しないことによって成立する。ストーリーに全く留意しなければ「ただの無音」であり、「無音を曲だと言い張った前衛もどき」である。しかし当然、この曲はそのような単純で軽率な曲ではない。この作品は「世にある凡ゆる音をそのまま音楽であらしめてしまった」(*2)のだ。是非は別として、それがいかに音楽史上意味のあることだったかに思いをめぐらせてほしい。

このように現代音楽においては「音楽はストーリー以下」がたびたび成立する。というよりも、ストーリーを含めて初めてその作品の魅力がわかる。語弊を承知で言えば、ある種の現代音楽においては、その思想が現れてさえいれば曲はどのような形でもいい。

それではこうした現代音楽家たちの作品を、音楽をストーリー以上のものにするために、そのストーリーを軽視して聴くことにどれだけの意味があるのだろうか。なるほど、確かにそれは作品を理解するひとつの過程としてはおもしろい試みではあるだろう。しかし、それに終始するとなれば、それは製作者の意図を尊重していないという点で、音楽――そしてそれは全く中身がない――を重視してはいるが作品を軽視しているということになる。

ストーリーの欠如により停滞する音楽

赤信号

もしそのような行いはしない、と現代音楽的在り方を肯定するのであれば、音楽におけるストーリーの重要性を肯定することになる。したがって、冒頭の発言は成り立たない。「音楽はストーリー以下」でも何ら構わないし、作品の評価がストーリーの有無で変わるのは当然となる。それでは、あくまで音楽は音楽で受け取らなければならず、ストーリー的思想を受け取るのは邪道だという考えを押し通し、現代音楽をそうした観点から聴くことも断罪するとしたらどうだろうか。

それはすなわち、停滞を意味する。

現代音楽家たちは音楽を厳格に追求し、高めようとしている。そして現代音楽は、エンターテイメント音楽としては決して優れてはいない。それをわざわざ聴くということは、その挑戦的な姿勢を聴き手の立場から肯定し、同様にその課題に対面するということである(あるいは、単純に変態か、ただのバカか、いけすかないスノッブである)。そのような在り方を否定するということは、音楽の進歩を聴き手側から遮断する行為である。それは現代音楽家たちと同時に、現代音楽家的な姿勢でもって商業音楽のなかで新たな道を切り開こうとしている人々への理解を拒否することでもある。

この件については大里俊晴氏が以下のように述べている。(*3)

すなわち、レコードの音響を、音楽についてのメタ情報(歴史的・社会的文脈における意味)と切り離し、等し並みに多種多様な音響の詰まったオブジェと見なすやり方。(中略)この文脈無視が意図的戦略のもとにおこなわれるのでないのなら、口に出すのもおぞましいが、それはただちにポスト・モダンを最悪の形態に堕してしまうことになる。すなわち、ポスト・モダンを歴史に無知であることの免罪符とする態度である。

もちろん、自分や誰かがポスト・モダンをどうしようが、一般リスナーにとって大した問題ではないだろうし、私はそうした聴き方が悪いとも全く思わない。ただ私が言いたいのは、なぜサムラゴーチ的在り方を否定するほど音楽に真摯なひとたちが、そうした非進歩的で快楽的な考え方を受け入れてしまうのだろうか、という疑問である

もう一度言う。私は何も、ストーリー要素が強い音楽を否定することが間違っていると言いたいわけではない。音楽は音楽で楽しむもので、そうしたストーリーをいちいち考えるようなものではないし、それに振り回されるようなものでもない。その通りだ。私も普段深く考えて音楽に接してはいない。それに、音楽の楽しみ方など強制されるものでもない。だが、そうした音楽原理主義的な姿勢は、その快楽の求め方から、実にサムラゴチックだと思うのだ。音楽を音楽のまま受け取り、作者の意図も含めた音楽以外の要素を軽視して、ただ音楽から即物的な快楽を得る。そのやり方は、全聾というわかりやすい記号をそのまま受け取り感動する彼らと、実に似ていると思うのだ。

冒頭の発言に対して私が感じた引っかかりは、そういうサムラゴチックな論理的無頓着さに由来している

音楽とストーリーの質の差

SAMURAGOUCHI

それでは、現代音楽作品のコンセプトを思いながら作品に接することと、全聾音楽家という謳い文句につられて作品を聴くことは、我々にとって同じことなのだろうか。もちろん、違う。上で私が述べたのは、音楽とストーリーという二分法でもってそのどちらかが優れている、という考え方は成り立たない、ということである。その音楽自体、ストーリー自体の質の差は、確実に存在する

何度も繰り返すが、基本的に現代音楽は進歩の音楽である。だからこそ人々に受け入れられ難く、それを聴き手がわざわざ選ぶというのは、音楽に対するその思想に共感するからだ。一方で、全聾で被爆2世である日本のベートーベンが作ったHIROSHIMAという曲。その生い立ちや身体による苦悩を、おそらく平和的メッセージに繋げているだろう曲は、むしろ一般に広く受け入れられるような内容になって当然である。そして、基盤となる普遍さにドーピングじみたわかりやすい経歴が乗っかってきたら、その手のことが好きなひとが食いつくのもまた当然だろう。苦境を乗り越えて平和を謳うその人に、彼らは感動する。それは同じ思想でも、音楽とは別のところにある思想である。

いや、私はここで、進歩的なのがえらいとか、大衆は愚かとか、そういうことを言いたいのではない。ただこうした音楽とストーリーに質の差が確実にあるということだ。

冒頭の「音楽はストーリー以下」というのは、そう、こうした差を指しているとも取れる。上の例で言えば、前者は音楽史的ストーリーを持っているが、後者はそうではない。そういう意味で、前者を“音楽”、後者を“ストーリー”と言えないことはない。そうして改めて見ると、なるほど、それは嘆かれても仕方がないのだろうなと思う。

ジャンクフードと日本料理

jiro

繰り返しになるが、ゴースト発覚前の佐村河内氏の作品は、全聾で被爆2世という非常にわかりやすく24時間テレビ的な、言ってしまえば偽善めいたストーリーがついてまわっている。言うなれば感動のためのドーピング音楽だ。それは化学調味料をガンガンに使ったジャンクフードのようなものである。毎日毎日ジャンクフードを食べている人を見たら、いやいや身体壊すしたまにはもっとイイもの食べたらどう、と思うだろうし、食ってるほうは食ってるほうでそんなことを言われたらウルせーうめーんだからいいだろ、と感じるだろう。あるいは、聞いたこともないような食材を、謎のダシで薄く味付けした、それでいて素材の味を活かした小粋な料理に毎日舌鼓を打っている人を見たら、たまにはハンバーガーとか食べたくならないの、と言う気持ちになるだろうし、それに対してそう言われた方はいやあんなもん食べ物じゃないでしょ、と答えるだろう。今回一部の音楽好きの人々が見せている嘆きも、それに対する反発も、そういう類のものである

もう一度言う。どちらがえらいというわけではない。そこに質や志向の差はあっても優劣は成立しない。ジャンクフードと日本料理を「どちらが優れているか」と比較することの無意味さを思えば当然だ。もちろん、食全体を考えるために両者を比較するのは有用であるし、また、そこに優劣をつけることで優越感に浸ったり、あるいは逆に嘆きの淵でカタルシスを得たりするのが好きなひとたちがいるのは承知してはいる。けれども私が言いたいのは、作品においてストーリーは音楽以下ではないし、音楽もまたストーリー以下ではないこと。その両方が両方で音楽作品の魅力であり、積極的に楽しんでいけば結構おもしろいんだぜ、ということである。

最後に

ちなみにある知り合いは、件のニュースを見た直後に「こりゃあまた売れるな、これ含めて商売だな」と言っていた。実際にまた氏の作品は売れているようである。鋭い。そして、見事な炎上商法である。炎上もまたストーリー。この物語、もうちょっと楽しんでいこうと思う。私も先日の「3年前くらいから少しずつ耳が聴こえるようになった」はおおいに笑わせてもらった。もちろんそれはとても下衆な笑いである。もはや音楽とは全く関係のない、とても下衆な。

……。

勘のいい方はお気づきの通り、本稿は「サムラゴチック」と言いたかっただけである。本言葉の起源は私ではない。Twitterでこの言葉を発した某氏に感謝の意を示し、本稿を終わらせていただく。ああなんてサムラゴチック。

  1. *1 専門書にチャレンジ! 第16回 ”現代音楽”を分析する両極のアプローチ
  2. *2 大里俊晴『マイナー音楽のために―大里俊晴著作集
    (月曜社、2010年発行)- 56ページ
  3. *3 同上 – 152ページ
投稿日:2014年03月09日