「会いに行く」人たち

目的によって同じように見える行為の名称が変わることは珍しくはない。例えば音楽の生演奏を聴きにいくことを「参戦」と言うひとたちがいる。ハードコア界隈で良く見られる表現だが、モッシュやダイブなど、ライブでの彼らの暴れ具合を見ているとなるほど「参戦」というのもしっくりくる。それはクラシックコンサートを「観に行く」のとははっきりと異なる行為である。

とはいえ「参戦」にしろ「観に行く」にしろ、ライブという場が目的達成の条件になっている点では共通している。しかし、世の中には、必ずしもライブという場でなくても達成される目的を持ってライブに行くひとたちがいる。それが「会いに行く」人たちである。

「会いに行く」人たちの目的は、その名の通り人である。それはミュージシャンではあるが、その人たちは必ずしも「会いに行く」人たちの前で演奏を行っている必要はない。「会いに行く」人たちにとって演奏者は自分の好きな音楽を演奏しているという価値を持った「演奏者」として存在しているのであり、その演奏自体が価値ではないからだ。したがって「会いに行く」ひとたちはライブ以外の握手会などにも積極的に参加する。いやむしろ、ライブよりも親密な時間を過ごせるそうしたイベントのほうが彼らにとっては望ましいとさえ言える。

「会いに行く」人たちの演奏者に対する距離感

人が人に「会った」とするとき、そこには相互認知が必要だ。例えば街で歩いている友人を見かけたが、向こうはこちらに気づかなかった場合に「私は友人に会った」とは言わない。あくまで一方的に見かけただけだ。相手がこちらに気付いて始めて「会った」となる。あるいはもう少し遠慮がちならば、挨拶をした程度では「すれちがった」になるかもしれない。

とすると、「会いに行く」人たちはライブにおいて演奏者側が自分を認知していると思っていると考えられる。そのような思い込みが生まれる理由はいくつか考えられる。“ライブ中によく目があう(気がする)→私を意識している!”という微笑ましいものから、“この作品はまるで私の気持ちを歌っているようだ→私のことを理解してくれている→私のために歌ってくれている”というゴスロリ電波系まで様々だろう。また、客に対して「ファンのみなさん」とライブ中によく呼びかけるような、あるいは「みんなに会いたかったよー!」と煽るような演奏者に対してであれば、自らを“ファンの総体”として「会いに行く」という感覚もあるかもしれない(というか大半はこれだろう)。いずれにせよ「会いに行く」人たちは演奏者と自分の精神的距離が「会える」程度には近いと感じていることは間違いなさそうだ。

さて、こうした「会いに行く」感覚は基本的に異性に対してのものだ。一番わかりやすいのがバンギャルのヴィジュアル系バンドマンに対するそれで、SNSなどで“適当なバンドメンバーの名前+会いたい”で検索するとわらわらと引っかかる。また、ヴィジュアル系でなくても、例えば神聖かまってちゃんのの子に対するある女性の同様の発言も確認している。これらは女性が男性に対して会いに行く場合だが、その逆で男性が女性の場合もある。アイドル好きとアイドルの関係だ。現在のアイドルブームを牽引している二大グループのAKB48とももいろクローバーのキャッチフレーズが、それぞれ“会いに行けるアイドル”、“今会えるアイドル”だということを考えると、アイドルに会いたがっている男性諸氏は多いと考えられる。男女ともども会いたがって会いたがって震えている様はまるで恋する乙女であり、対象が異性に限られることとと前述の距離感のことも併せると、「会いに行く」人は恋をしていると捉えてもよいだろう。もちろん、その想いは実際には恋ではなく、自分の欲求を恋と錯覚して昇華している可能性があるが、ともかく「会いに行く」人たちは大なり小なりそのような感情を相手に抱いていると予想される。(このあたりのことは大槻ケンヂ『ボクはこんなことを考えている』に詳しい)(ノンケ女性が女性アイドルに「会いに行く」のは親戚感覚?あと自己投影とか)

「会いに行く」人たちの行動

演奏者との距離感の錯覚と恋情。そう考えるといろいろ納得するところがある。例えば「会いに行く」人たちは、特にバンド界隈で、演奏者が有名になったりすると唐突にファンを辞めたりすることがある。これはイベントの動員数増加などによって対象との実際の距離が明確になったことで錯覚が解けたからと考えられる。また、激しくモッシュが起こるような内容のライブなのに、後方や2階でにこやかに手を振っているあの人たちは“身内”としてライブに来ているのだろう。

彼ら彼女らは何しろ人が目的なので、ライブだけでなく作品に対してもそういう観点で接する。例えば筋肉少女帯の「サーチライト」(大槻ケンヂが精神的に不安定だったときの曲で、自虐的な内容の歌詞)に対して「聴いているうちに、そんなに自分を責めないで、と暗い気持ちになりました」という感想を見かけたことがある。自身の音楽体験を差し置いて作者の心配をするこの発想は、まさに「会いに行く」人のそれだろう。そういうわけで、作品をただ作品として鑑賞している人や、ライブ「参戦」のために編集音源で予習するような聴き方の人とは、同じ作品の話でも根本的なズレが生じる。そして「会いに行く」人たちは、その他の人たちからバカにされがちである。これはミュージシャンの作品を主体とする聴き方が現代日本で主流だということだろう。また、その「会いに行く」という感覚が基本的にカン違いであるというところにも起因している。

そう、彼ら彼女らの想いはよそに、実際に「会える」可能性は限りなくゼロに近い。そしてそれを逆手にとってビジネスモデルとして成立させている分野すらある。「会いに行く」人たち手にしている「会った」感覚は虚構であり、彼ら彼女らの想いが真に報われることはない。それでもしかし、一途に想い続けるのだ。なぜならそれが、恋ってゅぅものだから。。。

あとがき

ネット上で見かける「会いに行く」という表現が気になってここまで話を展開してきたが、当然「会いに行く」人たちは100%「会いに行く」わけではない。「会いに行く」と表現したからといって即ミュージシャン目当てというわけだもないだろう。ただ「会いに行く」人たちの心理を多少なりとも理解できたかな、とは思っている。

ひとつの音楽作品を語るとき、対象となるのは音だけではない。作った人やそれを聴くファンでさえも批評対象になり得る。というわけで、たまには色んな視点で作品に触れてみるのも良いのではないでしょうか。

余談

しっかしこの話題、突っ込もうとすればするほどバンギャル行動心理学とかアイドル論とか「ミュージシャンは自分自身とその作品、どちらを好いてもらうのが嬉しいか」論とかマーケティングとかなんかすげぇ色んな領域の深みに発展して収拾つかなくなりそうになったですね。全部やったら本一冊書けるわ。というわけでどなたかお願いします。

投稿日:2013年12月05日