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LITURGY『The Ark Work』:新しいラップメタルとインディ系ブラックメタルの頂点

注目作、しかし低評価

インディ系を中心に取り扱うTHRILL JOCKEYからまさかの発売となった前作『Aesthethica』は、メタル系メディアには反発を食らいながらも、PitchforkやTINY MIX TAPEといったインディ系メディアからは好意的に迎えられた。あれから4年。DEAFHEAVENの『Sunbather』というインディ系ご用達ポストブラックの金字塔で整えられたシーンに届けられた新作『The Ark Work』は、発売早々メタル系メディアから大ブーイングを食らい頼みのPitchforkからも6.4点という厳しい評価を受けたMetacriticでも64点(4月5日時点)と評価はかんばしくない。

いったいどうしてこのようなことになってしまったのか。以下、本作における個々の楽器/音の特徴を挙げ、それらが組み合わさることでどういった作品になっているかを考えていこう。その中で、各種メディアからの低評価の理由が見えてくるかもしれない。

ギター

ひずみのないトレモロ

もっとも目立つのは叙情的なメロディのトレモロで、それ自体は一部のブラックメタルで良くあげられる特徴だ。だが、彼らのそれの音作りはクリアで、ブラックメタル的ではない。ブラックメタル第一波のBATHORYにしろノルウェーの第二波にしろ、あるいは商業的に成功したDIMMU BORGIRや近年のアトモスフェリックブラックやシューゲイズブラックにしろ、そのギターの音はひずんでいる。極端な場合、彼らはやすり紙で弦をこすったかのようなノイジーな音で空間を埋めつくす。

非業、憂鬱、あるいはハッタリ。トレモロに限らずブラックメタルのギターのひずみには何かしらの感情が込められてる。一方でLITURGYの音は、まるでギター教則本の手本のように整っている。そこには情念に根差した強い主張はない。精神性が重視されがちなこのジャンルにおいて、こうした点から彼らはブラックメタルではないと断罪されてもおかしくはないだろう

さらに、トレモロ中はトレモロ以外をほとんど演奏していないという点が、その異質さを増幅させる。左右2本のギターでバッキングやリードといった役割分担もなく、あるいはカッティングやミュート刻みといった技術も見せず、ただひたすらにトレモロによるメロディを繰り出すだけだ。

例えば同じブラックメタル内でトレモロによるメロディを重視し、かつ比較的クリアな音を使っているKRALLICEは、トレモロと同時にディストーションギターを鳴らしている。

片方がメロディを担いもう片方が音の壁や厚みを演出する、このような役割分担はメタルで広く用いられているが、LITURGYはそれを拒み、意地でも単音トレモロメロディを奏でる。これは「リフ」やその他ギターテクニックを重視するへヴィメタル的には完全に失格である(KRALLICEも失格と言えば失格だけど)。また、前述のディストーションの件もあって、ブラックメタル的にも失格であるので、トレモロ単体を取り出すと、トレモロで叙情的なメロディを奏でる、というその一点以外は、ブラックメタル的ではなく、メタル的でもない

マスマティックなアンサンブル

さて、トレモロ以外で彼らにもうひとつ特徴的なのが、ドラムと同期して刻まれるコード弾きだ。#6「Father Vorizen」のギターはこれのみで構成されている。これはブラックメタルよりはむしろプログ/マス系――いまならジェントでよく使われる手法だ。Pitchforkはこうした側面について前作『Aesthethica』のレビューでSteve Reichの『2×5』の名を挙げている(*)が、確かに中心人物であるHunter Hunt-Hendrixは、ブラックメタルは自分の主な影響元ではなく、SWANSやGlenn Brance、およびTEENAGE JESUS AND THE JERKSなどのノーウェイブバンドといった1980年代初頭のニューヨークシーンがその出自であると語っていることからも(*)、そのリズムは、メタルバンドのMESHUGGAHよりも現代音楽家であるReichとその手法を流用したインディ系を源流としたものだと考えたほうが適切かもしれない。いずれにせよ、彼らがリズムに関してかなり意識的なのは間違いない

ドラム

Greg Foxのドラムは、とにかく強烈だ。ブラストビートで突進していたかと思えば、唐突にブレイクに入り、今度は力強くシンバルを連打する。ツーバスとシンバルで速度を落としたかと思えば、いきなりブラストビートを突っ込んでくる。そうした留まるところを知らない変化が、全て全力で叩き付けるような勢いでもって繰り出される。

その突進力と、前述したマス的なアンサンブルが彼らのドラムの主だった使い方だ。こう書くとTHE DILLINGER ESCAPE PLANやCONVERGEなどのマスコア勢と近いようにも思える。確かにドラムのみ取り出した場合、そう遠くない比較だろう。だが、後述するが、これが他の楽器と合わさるとなると話が変わってくる。

また、#5「Quetzalcoatl」や#9「Vitriol」では大々的に打ち込みリズムが使われており、こちらも本作の大きな特徴となっている。

ボーカル

おそらく多くのメタラーが抵抗を感じ、あのPitchforkでさえもが難色を示した問題点。グロウルやシャウトは一切ない。用いられるのは一本調子で鼻にかかった声のボーカルだ。そしてそれは、時にラップに近づく。もちろんそれは意図されたもので、HunterはBone Thugs-n-HarmonyやThree 6 Mafiaを意識したと語っている(*)。

また、<Yeah a big theme for this record is approaching the relationship between rap and metal in a new way, different from what we conceive of as “rap metal”.(そうですね、今回の大きなテーマとして、ラップとメタルを新しい形、いわゆる「ラップメタル」とは違うやり方で関連付けるというのがあります)>*)とも言っており、本作を読み解くにあたってこのボーカルをラップ的なものとして考えるのは正しい姿勢だろう。

とはいえ、生気を全く感じないそれは、始めからラップとして生まれたのではなく、人間性を放棄した声――グロウルからひずみを抜き取り、そのパーカッション性のみ抽出してラップに近づけたという感覚が強い。そういう意味でこれはラップではなく、グロウルの抜け殻と表現するのが良いかもしれない。それはまるで前述のディストーションを用いないギターと同じようだ。

それにしても普段は対立しあっているメタラーとピッチフォーカーが「叫べよ」という点で意見を一致させているのはおもしろい。ブラックメタルは過激であることを求められる業の下にあるということか。

ベース

低音発生装置として、また、トレモロに集中しているギターに代わってリズムリフを担っている。一般的なブラックメタルのやり方で、特別言及するようなことはしていない。

その他の楽器、音

ベルや管楽器といった、ブラックメタルではそこそこ珍しい楽器のほか、シンセなどの装飾も多く使われている。ベルはトレモロを補強するかのように鳴り、管楽器に至ってはバッキングギターと同等の意味をもって前述のマスセッションで大きな役割を果たしている。

断続的な単音

さて、各パーツの特徴を示したところで、それぞれがどのように相互に働き本作を成しているのかを考えていこう。

リズムが本作の重要な要素であることはすでに述べたし、ラップとメタルの融合が本作のひとつのテーマであることも前述したとおりだ。そしてその命題は、断続性によるサンプリングへの近似によって成される

トレモロは、単音を間を置かず繰り出すことで、時間の経過とともに音が弱まっていくギターにおいて、強度を保った持続音を擬似的に再現している。ディストーションとリバーヴが用いられるとさらに音の切れ目が曖昧となり、揺れのある持続音へと変化する。多くのブラックメタルバンドはこの「揺れのある持続音」としてトレモロを用いている。一方LITURGYの音はひずみが少ないため、揺れではなく断続としての側面が強い。さらに、はっきりとした音を持つベルがトレモロに被さることで、その持続性はより薄まり、単音を高速で鳴らしている、という点が強調される。

そこにドラムが加わる。ブラストビートと呼ばれる高速でドラムを打ち付けるそれは、しばしばリズムであることを放棄し、ただ断続的に繰り出される音となる。トレモロ時におけるブラスト以外のドラムパターンも、それぞれ取り出してみると単純であることがわかる。リズムを形成するというよりも、ただその拍でその音が鳴っている、という感覚だ。これが断続性に寄与することは言うまでもない。さらに、リズム的でないドラムパターンがかわるがわる矢継早に繰り出されることで、何かドラムパターンをパーツとして組み合わせているような印象を与える。本作のドラムは部分を見ると断続的で、全体を見ると断片的という、リズム性が非常に小さいものとなっている。

こうしたトレモロとドラムが組み合わさると、相乗効果によって、推移からメロディやリズムを感じさせはするものの、全てが「断続的な単音」で構成されているかのような演奏になる。そしてその「断続的な単音」は彼らのバンド性を否定し、さらには時にブレイクビーツのように、時にシンセサイザーのパルスのように振る舞う

こうして断性が強調された演奏に問題のボーカルが乗る。ブラストパートにおける間延びしたそれは、演奏とのテンションの乖離によって曲の突進力をたやすく減退する。前進する意味を打ち消されたトレモロとブラストは、さらに「断続的な単音」と化す。これによってLITRUGYのブラストパートは、ブラックメタル的な演奏技法を用いながらも感触としてはむしろブレイクコアなどの高速電子ダンスミュージックに近い、という極めて特殊なものになっている

さて、マス的なアンサンブルが強調されるパートにいたるとボーカルは途端にリズムを取りだしてそこに加わり、ラップミュージックという属性をそこに与える。ギターは目立たず、むしろ管楽器が前面に出ているし、一部の曲では生ドラムさえない。さらに、参考元として名前を挙げられたラッパーたちに失礼なくらいに生気のない一本調子のボーカルとともに執拗に同じフレーズを繰り返すそれらは、ダンスミュージックに通じるミニマル感とサイケ感さえも醸している。そこにいわゆるメタルはない。とはいえメタルにおいてミニマルとサイケは、それこそMESHUGGAH『Catch 33』などで完成させられており、珍しいものではない。管楽器などもKAYO DOTなどのアヴァンギャルド系のメタルでは使用例がたくさんある。よって、#9「Vitriol」など極端な例を除けば、作品全体の流れのなかでこれをメタル的に聴くものがいてもおかしくはないだろう。非メタル的な要素で構築されてはいるが、メタルとしての可能性も一応持っているということだ。

このように、本作には非メタル的な要素が多くふくまれているもののメタル的技法が使われてはいるし、メタルそれ自体の解釈が広がっていることもあってメタル的に聴くことはできる。それが逆に「仏作って魂入れず」状態を作り出し、メタラーたちの怒りを掻き立てているのだろう。

░▒▓新しいラップメタル▓▒░

従来のラップメタルは、メタル由来の重低音リフをヒップホップミュージック的なリズムで刻み、そこにアグレッシヴなラップを乗せるというのが基本だった。一方で本作はメタルとしての意味を失ったブラックメタル+生気が抜かれたラップ風ボーカルという、全く別の組み合わせでふたつを馴染ませている。形式としてはそれに聴こえるが内実が抜けた同士の組み合わせという点は、なるほどHunterのいうブラックメタル=<something to do with a longing for ecstatic annihilation, a perfect void>*)に合致するだろう。

さて、本作はラップミュージックとして捉えることも可能だ。怒涛のバックトラックにサイケなラップが乗るスタイルとして聴けば、ヒップホップもかじっているメタラーが好きなグループ第1位のDEATH GRIPS的に楽しめる。

インディ系ブラックメタルの頂点

ここでもうひとつ、本作に対する私の見解を示しておこう。

本作の、リズムとしての滑らかさが薄い、しかし圧倒的な肉体性で全力で連打されつつ頻繁に場面転換するドラムは、楽曲に常にブレイク開けの迫力をもたらしている。本来ならばギターソロのあとだとか、曲の終わりだとかに適用される盛り上がりが、短いスパンでどんどんやってくるのだ。そこにベルや管楽器といった天上を思わせる楽器がうるさいくらいに加わり、さらにサイケでミニマルなマス的パートが組み合わさって脳のアドレナリン分泌をどんどん促す。しかしながらボーカルには生気はなく、奏でられるメロディはメランコリックだ。これではまるで鬱病患者の脳に電気信号を流し込んで強制的に多幸感を味あわせているようである

そしてそう、その「脳に電気信号を流し込んで強制的に多幸感を味あわせている」感覚は、まさしくANIMAL COLLECTIVE――特に『Feels』以前そのものである。サイケデリックに彩られたフォーキーでトライバルな演奏。笑顔でファルセットを披露していたかとおもいきや、唐突にギャー!と叫ぶボーカル。まさにそれだ。そうした特徴は「変態だけどポップ」という言い回しで大きな反響を呼んだ『Merriweather Post Pavilion』前後以降インディ系バンドが多幸感に焦点を当てて引き継ぎ、雨後の筍のように生えては腐って消えた(たぶん)。

あるいは「鬱病患者」という点を考えると、本作のトレモロメロディはシューゲイズブラックメタルやデプレッシヴブラックメタルに通じるものがある。そもそもLITURGYは、前述の2つのジャンルにアトモスフェリックブラックを加えたあたりの総称“ポストブラックメタル”の一群と捉えられることが多いが、このジャンルは今まさに雨後の筍のように新しいバンドが出ては腐っている最中である。

つまり、本作は雨後筍腐れハッピーインディ系と雨後筍腐れポストブラックメタルが奇跡の邂逅を果たしたかのような作品になっているのだ。Pitchforkはインディ系中心のメディアなので、当然ハッピーインディ系など聞き飽きている。彼らはこの点を感じ取り、低評価を下すにいたったのではないだろうか。ともかく、それでも私は腐敗の交錯から生まれたその存在に、畏敬の念を込めて「ブラックメタル」の称号を与えたい。

ちなみに本作は<(…) this music has always sounded in my head>(*)とのことで、なるほど哲学専攻でBLACK METAL THEORY SYMPOSIUMなる会合で発表をするような人生がブラックメタルな人物の頭にはこのような音楽が流れているのだという貴重な資料でもあるだろう。

インディがブラックメタルに侵食

LITURGYが所属するTHRILL JOCKEYはインディ系主体の音楽レーベルではあるが、THOUやTHE BODYといったドゥーム/ドローンメタルバンドも取り扱っている。また、昨年はブラックメタルをハウス的にカヴァーしたという、全ブラックメタラーを敵にしそうなTHE SOFT PINK TRUTH『Why Do the Heathen Rage?』を発売してもいる。(なお、本作の日本盤では彼によるリミックスが収録されているとのこと)

一部ではインダストリアルテクノのブラックメタル化も囁かれている。今後は、今回のLITURGYのようにメタル側がインディ系に近づくのではなく、電子音楽界が次のステップを目指してメタルに近づいてきてもおかしくはない。LITURGYは序章に過ぎない。これから第二第三のLITURGYやTHE SOFT PINK TRUTHが現れるに違いない。そんな中で、その年のベストに挙げられて終わりのような80点作品ではなく、10年後20年後に「あれはいろいろとヤバかった」と語り継がれるようなカルトな作品が生まれたら、楽しい。

本作がブラックメタルの可能性を押し広げた!かというと、結局はラップ+メタル(本人談)のこれにそれはちょっと高尚すぎるんじゃないかという気もするけど、最近のポストブラックメタルの中では抜群に飛んでるのは間違いないので、そういうのが好きなひとはとりあえず試聴だけでもして感動したり怒ったりゲンナリしたりゲラゲラ笑ったりしてほしい。パーッパパッパー。

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くるり岸田のティグランハマシャンッ!!発言と大切な権力の話

くるり岸田のアレ

結構まえに、くるりのボーカル兼ギター担当である岸田の発言が話題になりました。

基本的には「えらそうなやつにえらそうなことを言われてムカついた」という個人的な話なので、なんちゃって業界人のレビューと普通のリスナーの感想の線引きは何なのかとか、普通のリスナーが「大変心苦しいのですがクソだと思いました」と下から目線で率直な感想を言った場合は「聴き込みが足りんだろう?」とプロから目線で感想語られたりせずにすむのかとか、「クソだと思いました」と「最高でした」という感想があったら両方とも「的を得ている」のかとか、そういう疑問をいちいち考えても仕方がありません。

それにもちろん、日本のロックシーンを一面から牽引している彼なのですから、当然豊富な経験に裏打ちされた考えを背景に持っているのでしょう。しかしながらそれを140字ですべてを表すのは難しいというだけの話。場を改めて長文でその辺りを書いて欲しいところです。とりあえず「1日は24時間しかない」は真理だと思いました。

さて、今回の一連の発言のうち一番最初のものについて、いろいろと想像していろいろと言っていきます。なお、彼の発言が良いとか悪いとか、賛成とか反対とか、そういう話はあんまりないのでご了承ください。

権威による批判への圧力

最初の発言は、作品に対する権力の配位を明確にし、それによって相手の立場を弱くしています

岸田はプロのミュージシャンです。一般人やなんちゃって業界人、あるいは本物の業界人と比べても、音楽の知識は豊富な側だと判断されるでしょう。また、くるりの作品に関しては、岸田が最も音楽的に理解している人物のひとりであることは間違いありません。立場として有利なその彼が、その立場を意識させたのちに「聴き込みが足りない」と言ったら、並大抵の批判では端から見ても成立しません。

彼がくるりを論じることに対して絶対的な権威を持っていることは今後も変わりません。今回その権威が振りかざされたことによって、この件に限らず、我々なんちゃって業界人――あるいは本物の業界人は、彼の権威以上の正統性、あるいは音楽以外の部分での権力を持った批判を意識しなければならなくなりました。そしてその実現は、非常に難しいことです。とりあえず最低15回は聴いておかなければ否応なしにティグランハマシャン!!されてしまいます。

また、元発言がわからないため、言論内容での公平な判断ができません。相手への配慮、あるいは事務所の関係から元発言を隠したのかもしれませんが、そのせいで権威のみが残ります。

対象の非公開は、ファンの不安を生む

さらに、元発言の非公開は別の問題を生むように思えます。一部のくるりに好意的なファンの不安を煽り、彼らのちょっとした不平不満を自粛させるというものです

当該発言を見ても、彼の怒りは具体的な文章と繋がりません。“上から目線”が一体どのようなものを指すのか、“音楽評論家なのかサラリーマンなのかよく解らん奴”が一体どのような立場を指すのか個々人の想像以上のことはわかりません。くるりに対して批判的なことを書くときは、いつ上から目線のなんちゃって業界人と認定されてしまうのかに怯えなければなりません。実際に、自分のことかと勘違いしたファンもいたようです。(当該ツイートの返信参照)

もちろん、くるりに特別思い入れがないひとたちであれば、メンバーになんちゃって業界人認定されても何ともないでしょう。しかし、ファンは別です。もしかしたら自分が好きな相手から“上から目線”と思われてしまうかもしれないという不安によって、ファンが感じた不満――それはファンだからこそよくあることですが――は、彼らがくるりに好意的であるが故に公にされずに終わるでしょう。

もちろん、このようなことは一切感じず、感情のおもむくままに発言するひとびとが多い気もしますが、ここまで書いてお蔵入りというのも悲しいのです。

権威を後ろだてにした“なんちゃって業界人狩り”

さて、こうした権威を錦の旗として、一部の妄信的なファンが“なんちゃって業界人狩り”を始めだす可能性もあります。ミュージシャンがわざわざ相手を名指ししなかった配慮は、この網羅的な圧力によって意味をなくします。ネット上で発した言葉にいちいち絶対の正義という顔をしたひとびとが突っかかってくるようでは、特別くるりに思い入れのないひとたちは面倒になって発言しなくなってもおかしくはないでしょう。

それでももし自己防衛を兼ねながらくるりやその周辺に対して批判をするとすれば、2ちゃんねるなどの匿名掲示板などを頼るしかないのです。そしてそこに書かれたことは、「匿名であることは無責任であるから→(ここで論理の飛躍)→その内容は語るに値しない」という根強い価値観によって時代の闇に消えていくのでしょう。

戦争だ!

特定のミュージシャン/ジャンルのファンに対する「信者」という揶揄はみなさんも一度は見たことがあるでしょう。ミュージシャンを絶対神のように扱い、その意にそぐわないものは排除するという排外的な雰囲気は、外部の人間にはもちろん、内部にいる、信者性を持たない人間にとってもうっとうしいものです。

あるいは「本人は嫌いじゃないけどそのファンが嫌い」という発言もよく見かけます。確かにファンが「あのボーカルは○○と付き合ってる」といったゴシップ情報ばかり話してるのが目立ったら、あるいは公道いっぱいに広がって記念写真を撮るなどの迷惑行為をしていたら、そういうのに興味ないひとはゲンナリしてしまいますし、こいつらと同じだと思われたくないと考えてもおかしくないでしょう。

ファンが信者と化し、一定の偏った志向性を持ってしまうと、そのような流れで、そのひとたち以外はその集団から離れていきがちです。

しかしながら、そうした抑圧的な状況に真っ向から反旗を翻すひとも出てきます。初期厨などと揶揄されるようなひとたちです。このひとたちはかつて愛していたミュージシャンとそのファンに憎しみすら覚えているので、なりふり構わず攻撃します。Amazonにおいて最近のDIR EN GREYの作品レビューで★1つを付けて特に中身のない怒りの短文を残しているようなひとたちが典型的な例です。単純に初期が好き、最近のは嫌い、を通り越して憎悪の感情が芽生えているあたり、これは別の方向での信者性を持っているとも言えるでしょう。

そして、戦争が起きます。

争いが嫌いな平和主義者はこの時点で去っていくか、あるいは近づかないようにするでしょう。もしくは「争いをやめろ!」という形で第三勢力と化すかもしれません。また、やじ馬根性で当該ミュージシャンを聴き、どちらかの陣営に加わるものも出てきます。そうして規模を拡大縮小しながら、戦争は続いていきます。その争いがもたらすのは、疲弊か、あるいは栄誉の勝利か、それは神のみぞ知るというところでしょう。なんともヴォンミンドラーン。

音楽以外でも同じ

音楽ではありませんが、最近このような戦争の火種になりそうなことがありました。最近アニメ化で話題になっているSF小説『ニンジャスレイヤー』においてです。

http://kisigaoka.blog-rpg.com/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/008%E3%80%80%E6%9C%80%E8%BF%91%E3%81%AE%E5%BF%8D%E6%AE%BA%E3%81%8C%E3%83%80%E3%83%A1%E3%81%AA%E8%A9%B1008 最近の忍殺がダメな話 | ふゎふゎホヨモッテリ

(…) 公式を神聖視するヘッズが増えすぎて、ちょっとでも難色を示そうものならタグ外でも「多様性!」「奥ゆかしさ!」で非難されるという状況。本タグで雰囲気を壊すのが「奥ゆかしくない」のは分かりますが。

作品に対する不満と、そのことをうかつに口に出せない閉塞性に対する批判。まさにうえで述べた狩りvs反発です。どちらが正しいということはありません。どの分野でも、ひととひととがいる限り、争いは避けられないのです。

「本当の音楽好き」には関係がない

戦争の中で、その原因となる音楽自体が嫌になり、離れてしまうひともいるでしょう。しかし、それでは「本当の音楽好き」とは言えません。「本当の音楽好き」は、その他の様々な事象を音楽作品それ自体への態度に反映させることはないからです。なぜなら「本当の音楽好き」だから。「本当の音楽好き」になりたいのであれば、ただひたすらに己と音楽の関係性のみに集中し、浮世の喧騒から精神を切りはなしましょう。鍛錬あるのみです。厳しい。

じゃあ発言と相手を公開したらどうなる?

話が意図しない方向まで伸びてしまいました。くるりに戻ります。それでは今回の件で、発言元を公開していたらどうでしょう。フォロワーというほとんどが味方で構成されているだろうひとびとへと、自らへの批判的な意見とその発言者を公開して「異常に腹が立つ」などと言うことは、頭数という、これまた発言の内容とは異なる部分で相手を圧倒することになります。もしそれで炎上でもすれば、その後くるりに対して好意的か否かに関わらず、批判しにくい状況になるでしょう。

もちろん、ファンがひとりひとり相手とミュージシャンの主張を吟味して、そのうえで「相手が悪い」と判断して、実際にその点を表現するかどうかは別として、対応するのであれば、それは頭数や権力ではなく発言内容による対等な批判となります。そういうことが行われる状況下であれば、例え批判的であろうと、内容に自信があれば本人の目に届くことを恐れずに発言できるでしょう(もちろんそうした文章を書くことは困難なことではあります)。しかし、「あのひとが言ったから」と論拠を権威に求める一部のファンの集団が、あるいはそうなるように意図的に「晒し」行為をするミュージシャンが(念のため言っておきますが、くるり岸田はそうではないです)、そうした平等な関係を邪魔することは、想像に難くありません。

とはいえ、その行為が「晒し」として成立するかどうかは、当然ですが引っ張りだした当人の意図やファン層など様々な要因が絡みます。当人が悪意を持って晒しを行っても周囲は冷静だったり、あるいはその逆で、当人がある程度冷静でもその周りが怒り狂ったりする場合もありましょう。

例1:SANNHETの場合

ここで、ミュージシャンへの批判的な発言が、当人らによって大勢の味方へ周知された例をひとつ挙げましょう。ブルックリンの3人組インストゥルメンタルメタルバンドSANNHETの新作『Revisionist』です。

この作品はアメリカのメイン州Gorham高校の生徒たちによるウェブマガジンで下のように酷評されています。

I cannot call this music because it takes little to no musical talent/experience to create. If you took chimps (actually, not chimps, as chimp music would sound more musically talented than whoever created this) rocks.*
(全文概要を超訳:全部同じに聴こえる。まだチンパンジーのほうが才能あるわ。)

この投稿は3月10日にバンドのFacebookページにて紹介されています。かなり挑発的でティグランハマシャンッ!!されても文句が言えないレビューです。実際一部のファンは<fuck this kid.>とマジギレしています。しかしながら、大部分はジョークに近い皮肉を言う程度で済ませており、相手のサイトに乗り込んで「追い詰めてやるよw」といった脅迫めいた文章を残したりはしていません。バンド自身の反応もそんな感じで、泣きの顔文字ただひとつ残すのみ。「異常に腹が立つ」ようなそぶりは見せていません。むしろ悲しんでいます。日ごろから自分たちへの言及をFacebookでシェアしていることもあって、記事のシェア自体がその一部という形になっており、怒りや「晒し」の意図も感じられません。

やはり、相手が17歳の女子高校生であることと、レビューの内容が上述のようなものであることから、この低評価が明らかに彼女の経験の足りなさから来るものだと皆判断しているからでしょう。「相手にするまでもない」という態度が感じられます。

どんな過激な批判でも、状況次第では単なる内輪のひとネタとして終わるという例です。

例2:キリトの場合

次に、自分に批判的な記事を書いた人物に直接行動を起こした例を見てみましょう。PIERROTのボーカリストであるキリトは、ある雑誌のライブレポートの内容に疑問を持ち、記者および編集者と対面しています。

とはいえ、どんなに僕から見て”ニセモノ”であろうと、彼もプロのライターである。僕が自分の音楽を大切に思うように、彼も自分の言葉には何かしらの思いがあるのだろう。ただ一方的に問題の部分を削除してくれというのは失礼な話である。(…)もし、ライターなり編集者から筋のとおった返答が来れば、僕は何も文句を言うつもりはなかったのだ。*

下手なことを書くと本人が乗り込んでくるなんて、くるり岸田よりもやっかいで恐ろしいですし、「もうこいつ批判するのはやめておこ」となってもおかしくはないですが、しかしながら<的を得た根拠が添えてあれば僕はなんとも思わない>*という姿勢――そしてその根拠は<「ドームの形態上、やむをえないのかもしれないが、低音がグルグル回って聴き取れず、高音ばかりがキンキンと響く箇所があった」>*くらい感覚的なものでも良いという事実は、ミュージシャンに対してあれこれ言いたい、あれこれ言ってるのを読みたい私のような人物にとってはありがたいことであります。

彼が上記のような行動は、(1)相手がプロであること、(2)そこに金銭的価値が発生していて自分のファンがそれにお金を払う可能性があること、(3)そのことを自覚して誇りをもって仕事をするべきだという価値観、(4)自分たちも誇りをもって仕事をしていて、正当に思えない批判はその誇りを傷つけるものであるという意識にもとづいています。その辺の素人が<ドームにはドームの演出がある>*と根拠なく同じことを言った場合、(1)~(3)には引っかかりませんが、(4)には該当します。その場合、あるいはティグランハマシャン!!されてしまうかもしれません。なるべく説得力のある内容を心がけるか、下から目線の感想にとどめるか、そうでない感情にまかせた罵詈雑言の類は匿名掲示板で発散するのが、自己防衛策としては最善でしょう。

ちなみに彼はこの件を自著に書くことに関して<「今後、つきあいづらくなる」>*と権力でやっつけてこようとした出版社に対し、<これで今まで毎月載っていたのにいきなりピエロが載らなくなったら、どの雑誌か読者にばれてしまいますね。>*と権力返しをしています。詳細に内容を書いているので、名指ししてもしなくてもどの道読者にばれてしまう気はするのですが、ともかく、上でも触れましたが、権力というのは本当に大事です。

権力の使用はミュージシャン→ファンの方向だけではない

くるりほどのメジャーな存在であれば、本人たちと好意的なファンの総体は、批判に対して権力を振りかざすだけの力と数を持っています。しかし、そうではない、SNSで必死にファンを増やそうとしているような零細ミュージシャンとなると話は別です。プロのレビュアーはもちろん、有名ブロガーにも権威という点では負けます。「チンパンジー以下の才能」などと言う批判を「価値なき批判」と化すだけの権力やファンの力には乏しいでしょう。正々堂々と自らの音楽の良さを語る方法は「ミュージシャンなら音楽で勝負しろ」という音楽好きが好きそうな発言=権威のある発言によって封殺されます。こうして批判は世間的な認識となって、それによって音楽が嫌になり、ミュージシャンを辞めてしまうこともあるかもしれません。

また、前述のファン同士の戦争でも権力はしばしば使われます。「ブラックメタルを次の段階に押し進めた!」ことでおなじみDEAFHEAVENの肯定派の一部が、否定派たちを「保守的だ」と批判し、あるいは「新しいものへの感度がもう少し上がらないかなー?」などと言っていましたが、これは有名辛口レビューサイトPitchforkを中心に各種メディアが絶賛しているという事実を前提とし、「進歩的であることはよいことだ」という何となく正当性のありそうな価値観を上乗せして、それで形成した権威で相手を黙らせ改心させようとしている、といったところでしょう。(もちろん、権力に頼らない批判をしているひともいますし、しようと思えばできるひとが大部分でしょう)

私はそういうことをやめろ、ということを言いたいわけではありません。私も結構権威に頼った物言いをします。ただ、もし純粋な論評をしたいのならば、できる限り権力勾配を発生させないよう意識したほうがよい、という程度のことです。そしてもしあなたが求めるものが「不快なものの抹殺」、「とにかくの勝利」、あるいは権力ゲームなのであれば、日ごろから権力を高めておくとよいでしょう。

岸田はロックミュージシャンだった

くるりの岸田に戻りましょう。彼は「サブカル眼鏡バンドマン」の偏見を生み出したパイオニアという印象で、ジム・オルークなどとコラボする進歩性からも理屈的な人物だと思っていたのですが、なかなかどうして直情的なザ・ロックミュージシャン然としていたようです。

いや、たとえ理性的であろうと直情的であろうと、私はミュージシャンに「怒るな」と言っているわけではありません。人間ですから、そりゃあ悪く言われたら腹が立つでしょうし、SNSで愚痴りたくもなるでしょう。大いにしましょう。私もします。

ただ、批評に対して、岸田はそういう対応をした。SANNHETは、キリトはそういう対応をした。そして、私個人で言えば、前述の理由(とバンドへのひいき)によりキリト的行動が好ましく感じます。ビビりで権威も持たない私は、今後岸田関連の作品は下から目線で素人の感想を述べる以外のことはしないと決意しました。あ、『THE PIER』、よかったっす(これはマジでほんとです)

ここから「SNSの登場によってミュージシャンとファンが身近になったことによりウンヌン」と続けられそうですが、あまり興味がないのか筆が動かない気しかしないのでやめます。とりあえず次回は<音楽語る上でシーンの動向とかビジネスモデルを用いて語る人もいるだろうけれど、俺に言わせりゃそんなの付加要素でしかない。なんちゃって業界人のレビューより普通のリスナーの感想の方がよっぽど的を得ている。音質、演奏、アンサンブル、雰囲気、生理的相性、コンセプト、そん時の気分が全て。>についてまたアレコレしたためます。お楽しみに(プワーオ)

トップ画像元サイト:足成

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