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KAZUMA KUBOTA『Two of A Kind』:“未来の耳”を体感せよ

非平常と平常の同時利用

我々一般人にとって、ハーシュノイズは音楽体験としては非平常的なものだ。リズムもない。メロディもない。ハーモニーもない。我々の体に染みついた西洋音楽的手法からかけ離れたそのあり方はどうにも非音楽的である。そしてまた、西洋音楽的な観点ではなく、日常生活的な観点でも耳馴染みはない。原音がわからないほど機械で処理されたその音は間違いなく自然界には存在しない異形の波長であり、非平常的な音である。

KAZUMA KUBOTA氏の本作は、<メランコリックなアンビエントサウンドとフィールドレコーディングそして切り刻まれたハーシュノイズの高次元融合(*)といった紹介をされている。フィールドレコーディングとは平時の生活音の録音だが、そういう意味でそれは明確に耳に痛いノイズとは対極の位置にある音だ。また、環境に溶け込むようなアンビエントとノイズも同様の関係にある。非平常と平常の同時利用。それが本作に見られる特徴的な構造だ

その構造が、どういう意味を持っているのか。

ヒントは表題『Two of a Kind』にある。似たもの同士。これはノイズと環境音のことを指していると考えよう。前段で述べた通り、それぞれは非平常と平常という逆の要素で成り立っている。それが似たもの同士とはいったいどういうことか。

ルッソロが提示した“未来の耳”

ここで、ノイズの始まりとして知られるルイージ・ルッソロの『The Art Of Noise』(騒音芸術)の一節を見てみよう。

With the endless multiplication of machinery, one day we will be able to distinguish among ten, twenty or thirty thousand different noises. We will not have to imitate these noises but rather to combine them according to our artistic fantasy.

このまま際限なく機械化が進んでいけば、ある時我々は1000や2000、3000の異なるノイズを聴き分けることができるようになるだろう。

ルッソロは同文のなかで、我々の生活音が変化することで、我々の耳はその変化した環境に適したものになっていくことを述べた。なるほど、我々の現在の生活には、昔ではありえなかった音が溢れている。車や電車の走行音、家電のモーター音、室外機の排気音、あるいは電話の着信音など。産業革命以前の人々にとっては騒音でしかないこれらの音も、いつしか我々の生活環境に溶け込んでいった。

このような、異音を環境として受け入れてしまった耳を、ルッソロは<fururist ears(未来の耳)>と記している。この未来の耳がさらに進化していけば、なるほど非平常的に聴こえるハーシュノイズも環境に溶け込み、あるいは心地よく聞こえるかもしれない。逆もまた然りで、もし“過去の耳”を体験することができれば、今我々が何となしに聞いている数々の音も騒音として脳に響いてくるかもしれない。

そう、ノイズも環境音も、どちらも我々の状態によっては騒音にもなるし生活の一部にもなるという意味で、それらは“似たもの同士”なのだ。KAZUMA KUBOTA氏の『Two of a Kind』は、その事実を音楽作品として提示しているように思える。

各曲の構造と心象性

既に述べたように、本作はノイズとフィールドレコーディング、アンビエントを組み合わせて作られている。もちろん、ただ同時に鳴らしているわけではない。様々な音響効果を混ぜた丁寧な作りによって、普段ノイズに馴染みがない人もアンビエントの流れでも聴ける、という意味での裾野の広さを持った音楽作品として成立している。

ここで、ちょっと話を変えて各曲の構成を見ていこう。

#1「Alone」

ゴボゴボという重低音ドローンとスクラップ工場を彷彿させる金属的なフィールドレコーディングからなるアンビエント作品。目立った展開は見られないが、よく聴くと低音のうねりと金属ノイズの密度によってマクロに展開していることがわかる。大量の釘をザーッと流したような音が時折支配的になって、ガビーッというようないわゆるハーシュノイズ的な音と同じように耳を刺激するのは、前述したような環境音とノイズの関係性を聴き手に意識させるには充分だろう。

#2「I Remember You」

メランコリックなドローンアンビエントによって幕をあける。2分半を超えたくらいにある錠前を開けたような音をきっかけに、いままで穏やかだったドローンは容赦ない低音ノイズへと変貌し、さらに4分を超えると耳をつんざく高音ノイズがそこに加わる。最終的にそのノイズたちはまたメランコリックなアンビエントに戻り、チャリチャリと鍵をいじるような音とともに曲は終了する。

低音ドローンノイズ部分で鼓動のような蠢きが絶えず鳴っているのは注目すべき点だろう。我々は完全に無音の状態に身を置くことはできない。外部からの音を遮断しても、呼吸や心臓の脈動、血液の流れといった内部からの音が浮かびあがるだけだ。あるいはそうした無音状態に身を置いたことがあるひとならば、静かすぎて耳鳴りが聴こえる、という体験をしたことがあるかもしれない。そうすると、この曲で聴ける鼓動音を含んだドローンは外部的な騒音ではなく、むしろ外部的な音とは隔離された内部的・心象的な意味でのドローンだと捉えることができるだろう。うえでメランコリックなアンビエントドローンがえげつない重低音ドローンノイズに“変貌”したと表記したように、この二つは根本が同一のものであると感じられる。その理由は、鼓動音がノイズにそうした心象性を付加しているからだろう。また、鼓動は単純にリズムとしても働いている。

アンビエントパートとドローンノイズパートの両方が心の音として機能しているのは、もちろん感情の代替表現としての音としての意味もあるが、その一方で、ある音が心象の変化で容易に意味を変えるということを示唆している。

#3「Labyrinth」

柔らかなドローンアンビエントに、速度のあるハーシュノイズが被さる。このハーシュノイズ、単純にめちゃくちゃかっこいいのでひたすら連続してこの音がうねっていてもいいのだけど、ここでは語りかけるように断続的にノイズが鳴っている。そしてそのハーシュノイズは、その速度感とうるささから、背景のアンビエント音とまるで折り合いをつける気がない。アンビエントを心象とするならば、それは外部からもたらされる騒音だ。これがもしジャケット絵の彼女が聞いている音だとすれば、彼女は外部の働きかけをすべて害あるノイズとし、自らの内なる迷宮に閉じこもることによって心の平穏を保っているように思える。

さて、3曲を通すと、徐々にノイズの強度があがっていることがわかる。ノイズ強度の変化は単純に作品に変化を与える効果もあるが、アンビエントとノイズをより馴染ませる働きもする。アンビエントとノイズの音の差が少ない1曲目でその二つの境目は曖昧になり、その流れで2曲目の柔らかなアンビエントと強力なノイズを同一の属性のものとしてさらに強く認識させる。そうして作られた“未来の耳”は、ノイズとアンビエントが互いに寄り添うつもりのないほど音に差がある3曲目をひとつの曲としてより強固にまとめあげる。

ノイズ強度の変化はさらに物語性も上昇させている。#1「Alone」――孤独のふちに感じたちょっとした雑音が、#3「Labyrinth」――心の迷宮に閉じこもるときには大きな騒音としてその身に降りかかる。こうした物語性は、ともするとダレがちなノイズ/ドローン/アンビエント系の作品にとって大きな武器になるだろう。

こうして見ると、氏の作品は非常に高い叙情性を持っていることがわかる。そしてその叙情性でもって、環境音とノイズを“彼女視点”という同一の属性の音、すなわち“似たもの同士”と成している。

騒音芸術としての『Two of a Kind』

ルッソロは、先に引用した文章のあとに、こうも続けている。

We will not have to imitate these noises but rather to combine them according to our artistic fantasy.

私たちは、これらの雑音を模倣するのではなく、むしろ芸術的な空想によってそれらを組み合わせなければならないだろう。

本作は、ノイズとハーシュノイズ、フィールドレコーディング、アンビエントドローンを組み合わせてひとつの芸術的な心象空間を紡ぎだす。その心象性は触媒となって環境音とノイズを混ぜ合わせる。それによって、我々は擬似的に、ノイズと環境音が共に“アンビエント”として同様に感知される時代、すなわち“未来の耳”を体感することができる。そしてそれは、ルッソロが提示した騒音芸術そのものであるだろう。

リンク

[ototoy] 特集: ノイズ対談vol.2! 対談: T.美川(非常階段、INCAPACITANTS) × Kazuma Kubota
Kazuma Kubota (ex.Bloody Letter)インタビュー