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VINDENSANG『Alpha』:ポスト“ポストメタル”の息吹を感じる

ポストメタル王位継承者は誰だ

2010年、ISIS王崩御。続く2012年に、王を失ったHYDRA HEAD王国は9年間の歴史に幕を閉じた。のちに言うポストメタル王位争奪時代の始まりである。

「オレが王位継承者だ」。そういって世にはびこったアイシスラッジバンドたちの存在を、ポストメタル的意味で無に返す覇王が現れた。それがペンシルバニアの3人組、VINDERSANGである。

アイシスラッジ

古代NEUROSIS王の導きのもと、リフやツーバス、ギターソロ、メロサビ展開といったものをそぎ落とし、不定形な感情のカタマリを形成した先代のISIS王は、メタルの“メタル性”を打ち捨てたという点でまさに“ポスト”メタルだった。そして一度殺したその体に、歌とツーバスの採用という形で新たに肉を形成した『In The Absence Of Truth』、そしてその肉の強度を保ちながら再度音を空中へ拡散した『Wavering Radiant』でポストメタルは完結した。ISIS以降の“ポストメタル”チルドレンたちに出来ることといったら、ISISが捨てたものをわざわざ拾ったり、別のものと混ぜたりしながら、ISISの“ポストメタル”をなぞることしかなかった。

私はポストメタルが大好きだし、NEUROSIS、ISIS以降のバンドの中にはすばらしいバンドがたくさんいる。それでも彼らに対して「アイシスラッジ」と皮肉混じりに言いたくなるのは、結局彼らの音楽が“ポストメタル”でしかないからだ。

だがしかし、VINDESANGはそうではない。彼らの曲は全くISIS的ではない。ポストという言葉が本来の意味通り働く、ポストメタルである。

アンビエントバンド

ここまでポストメタルポストメタル言ってきたが、彼らはポストメタルを自称してはいない。

Vindensang is an American ambient band with strong influence from post-rock, experimental rock, and experimental metal. They have become known for their conceptual, genre-bending music and for capturing and re-producing atmosphere in sound.
VINDENSANGはポストロックやエクスペリメンタルロック、エクスペリメンタルメタルに強く影響を受けたアメリカのアンビエントバンドである。コンセプチュアルでさまざまなジャンルを繋ぐその音楽性と、アトモスフィアをその音の中に捕え、再生成することで知られている。

アンビエントバンド、だそうだ。とはいえエクスペリメンタルメタル――ポストメタルとほとんど同じと考えて良いだろう――の影響を受けていると記されているし、その重苦しい雰囲気や低音の量、フレーズ、濁った声は間違いなくロックにはない類のものだ。

さて、上記の説明文は、彼らの音楽性を考えるうえで大いに参考になる。とりあえずアンビエントバンドというその名称と、後半のドヤ感のある文章をあわせると、かなり“アトモスフィア”に重きを置いていることがわかるだろう

VINDENSANG_member
おそるべきアトモスフェリックなメンバー写真

ポストメタルにおいて主に反響効果や持続音、あるいは音の隙間によって表現されるアトモスフィアというのは、当該ジャンルの音楽を形作るうえで重要な要素だ。したがって、NEUROSISやISIS、そしてその影響下にあるアイシスラッジバンドたちもその辺りに力を入れた音作りがされている。特にこのVINDENSANGは、そのアトモスフィアへのこだわりが故にその表現が徹底しており、そのことは、彼らがその他のポストメタルバンドとは一線を画している理由でもある。

それでは、彼らのアトモスフィアへのこだわりを見ていこう。

ギターリフの排除

ポストメタルはメタルとしての肉体を捨てている。メタルボディを構成する大きな要素のひとつがギターリフだ。従来のメタルとポストメタルでは、このギターリフはどう異なるのだろうか?おそらくメタル界でもっとも成功しているバンドのひとつであるMETALLICAの代表曲「Master of Puppets」と、初期ISIS王がポストメタルを覚醒した時期のを聴き比べれば、そのギターリフの意味が両者で全く異なることがわかるだろう。

Metallica – Master Of Puppets (Live)

ISIS :: HOLY TEARS


あまり適当な例ではないが公式動画はこれくらいしかなかった。

METALLICAを含む従来のメタルバンドにおけるリフの目的は“刻み”であったり“メロ”であったり“強度”であったりする。一方でISIS系列のポストメタルでは刻みやメロの意味が薄く、どちらかというとコードの響きやハーモニーを主体とした音響的アプローチを取っている。刻みやメロは断続的な音の連なりによって構成されるという意味でメロディ的であり、コードの響きは音の連なりなしに成立するため非メロディ的だ。ポストメタルバンドのギターにおける単独の音を研ぎ澄ます音響的アプローチを、このメロディ性の排除が一層引き立てている。

しかしまだ、従来のメタルとポストメタルのギターリフで共通している部分がある。強度だ。よく言われる静と動の対比を始めとして、ポストメタルではギターの強度が曲の展開におおいに利用されている。アンビエントパートで形成した感情の大気を、研ぎ澄まされたギターの響きで一気に爆発させる。ギターの強度はその起爆剤であり爆発そのものである。

だがVINDENSANGは、この強度すらもギターから排除してしまった。彼らはギターが爆発することを許さない。たとえ“動”の部分であってもだ。ギター強度の落差を最小限に抑え、なるべく音の響きで強弱を演出する彼らの曲は、従来のポストメタルよりも強く音響的でアトモスフェリックであると言える。

本作において、ギターはこうした歪んだコード弾きや反響発生の他、単音によるメロディ生成も行っている。しかしながらこのメロディも、上述の観点を踏まえて聴くと、なるほど、そのメロディではなく音響のほうが主要な意味なのかもしれない。

グロウル、お前もか

本作では、メタルバンドらしく、ボーカルにはダミ声が使われているが、それは叫びではなく語りの延長線上にある。同じ語りという範疇のなかで、声の歪み具合と感情の込め方でボーカルの強度を変化させている。場面にあわせて音の響きを使い分けるそれは、ギターが醸すアトモスフェリックに追従し、その感情を増幅するに足るものだろう

つまり、バンドとしての肉を形成する大きな要素であるボーカルもまたギターと同様に“音響”と化しているのだ。主役級の要素二つをともに音響的に用いるそのアトモスフィアへのこだわりが、彼らが単なる“ポストメタルバンド”ではなく、“アンビエント”バンドたる所以であると言える

それでも彼らはバンドである

GODSPEED YOU! BLACK EMPERRORやYEAR OF NO LIGHTといった一部のポストロック/ポストメタルバンドは、そのアート性を極限まで追求した結果、既存の意味での“バンド”から大きく逸脱した音楽性を獲得している。ギター、ベース、ドラムという楽器構成でありながら、メロディや合奏の力強さといったものは時折顔を見せる程度で、ほとんどはその音響を主体としたドローン/ノイズ/アンビエントな部分で構成されている。

VINDENSANGのギターが向いている方向は、間違いなく彼らと同様の非バンド的な境地だ。だが、彼らはやはりアンビエント“バンド”――あるいはポストメタルバンドでもいいが、そう呼ばれるに足る結束感を持っている。それを演出しているのが、音響に徹しているギターの代わりに力強く鳴らされるベースとドラムの低音部隊だ。

ベースは、音響に徹したギターを補うように、前述した従来のメタルリフ的な意味を持って鳴らされる場面が多い。ギターを自由にするためにベースがギターの役割も負うという手法はLUNA SEAでも見られるもので、それほど珍しいわけではない。

注目したいのはドラムだ。ドラム、クソうるさいんだこれ。ミックスを間違えたのではないかと疑うくらいの主役級の音量で、どかっと真ん中に鎮座している。このドラムがベースがリフの役割を担った際に発生する低音不足を補っている。ふつうこんなドラムの置き方したら他の演奏を覆ってしまって合奏が崩壊しそうなものだが、ギターはバンド感を放棄して中~高音域を漂う音響と化しているためドラムとは競合していない。ボーカルはそもそものパートとしての主張の強さがあるので喰われてはいない。ベースは、一応十分な量感を持っていることと、リフという主役級の役割が与えられているのでドラムとの合奏の体は保っている。

彼らはギターとボーカルという肉をそぎ落とした代わりに、ベースとドラムという骨格の力強さを高めた。そのことが彼らのバンド感を強固なものにしている。

エレクトロミュージック性

徹底したアトモスフィアへの敬愛とバンドとしての骨格の両立は、思わぬ効果を生み出している。それは“エレクトロミュージック性”である。ドカドカと鳴らされるリズムに、音響とメロディを奏でるウワモノが乗る。そう、それはまさしくエレクトロミュージックの構造である。ギターとボーカルが音響に徹したことでウワモノとリズムの対比が明確になったわけだ。

このエレクトロミュージック性は“反復に関する妥当性”と“チルアウト性”として本作に寄与している。ポストうんたら系バンドは、その長ったらしいアンビエントパートと冗長な展開からよく「かったるい」と評されることがある。その長ったらしいアンビエントパートにチルアウト性が、冗長な展開に反復に関する妥当性がそれぞれ充てられることで、そのかったるさを減衰している。

ポスト“ポストメタル”

VINDENSANG『Alpha』は、その徹底した音響へのこだわりによって、ドローン/ノイズ/アンビエントの感触を持ちながらも確実にバンドであり、さらに多少冗談も混じっているにしろエレクトロミュージック的でもある、まさにアンビエントバンドとして存在している。NEUROSIS/ISIS的ポストメタルの音像でありながら、その定型とは異なったアトモスフィアを内包している本作は、NEUROSISとISISのもとに生まれつつも、それらから完全に解放された意味でのポストメタルだと言える

形骸化しつつあった次期アイシス王位継承戦を一蹴し、新たなポストメタル王国の礎を築いた本作は、まさしくポストメタルの未来を感じる『Alpha』バージョンとでも言いたくなる出来だ。今後おすすめのポストメタルバンドを聴かれたらぶっちぎりでVINDENSANGと答えていくし、胸をはってポストメタルが好きだと言っていきたい。そんな会話する機会はない哀しみとともに。

謝罪

本作を紹介するにあたり「恐るべきポストメタルおじさんたち」という語句を使っていたのだが、どうやら彼ら、20代半ばのようだ。全然おじさんじゃない。謹んでお詫びしたい。中心人物のJ. Neblockは1990年生まれとのこと。なにそれ天才かよ。もうさっさとDaymareあたり契約しておいたほうがいいんじゃないっすか。新しいものへの感度が高いんだから

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GROWN BELOW『The Other Sight』:ポストメタル王国王位継承候補

ポストメタル王位争奪時代

2010年、ISIS王崩御。続く2012年に、王を失ったHYDRA HEAD王国は9年間の歴史に幕を閉じた。のちに言うポストメタル王位争奪時代の始まりである。

正統継承者であるPALMSに異を唱え、国の主権奪取を狙う5組のポストメタルバンド。知翔の神が手を貸したROSETTA、強力の神が手を貸したMOUTH OF THE ARCHITECT、残虐の神が手を貸したCULT OF LUNA、知性の神が手を貸したLIGHT BEARER、そして、今回紹介する技の神が手を貸したGROWN BELOWだ。

GROWN BELOW

GROWN BELOWはベルギーの5人組バンドだ。

彼らが鳴らすスラッジ由来の重厚なリフとポストメタル然とした叙情的なギター、長ったらしいアトモスフェリックパートはまさにISIS以降のアイシスラッジといった感じだ。彼らの場合、そこに叙情的な歌を加え、さらにメロディにポストロックに近い陽性の感傷を採用することで、“ポストアイシス”としての独自性を追及している。

ISISのボーカルは基本的にお経とシャウトだった。フランスから「メロなしMESHUGGAHにメロを加えたらいいんじゃね?」というバンドが同時期に2つも出てきたことを考えれば、「“歌”なきISISに“歌”を付け加えたらどうよ?」という考えも別段独創的なものではないと言えるだろう。上記の王位継承者候補のうちでも、PALMSはChinoという名ボーカリストを迎えたし、MOUTH OF THE ARICHITECTはシンガロングポストメタルという熱き血潮ほとばしる未知の領域に足を踏み入れている。したがってGROWN BELOWの歌自体は、彼らの大きな特徴とするほどではない

メロディ

歌は特徴とはならないが、そのメロディはどうだろうか。上述のように、彼らが用いるメロディはしばしばMONOなどの感傷系ポストロックに近づく。そしてこの“ポストロック的メロディ”というのは、意外にもアイシスラッジではあまり見ない類のものだ

ポストメタルに対してのポストロックという要素それ自体は、それぞれバンドとしてのダイナミズムに音響的な手法を取り入れる、という点で両者が共通していることもあり、比較的近いところにあるだろう。例えば前述のLIGHT BEARERなどはかなりポストロック要素が強いバンドだ。それはポストメタル界に衝撃を与えた彼らの『Lapsus』に対する「For Fans of Envy, Sigur Ros, Aphex Twin, Mouth Of The Architect, 65 Days Of Static, and Neurosis!」(*)という文章からも伺えるだろう。しかしながらことメロディ――特に歌のメロディに関して言えば、もともとの出自がネオクラストであることもあって、彼ら主軸は激情ハードコアに近く、ポストロック的キラメキとは少し異なる。

ともかく、GROWN BELOWの“ポストロック的メロディ”は彼らの大きな特徴として良いだろう。

静と動のなかのメロディ

アイシスラッジを語るうえで必ず出てくるのが「静と動の対比」だ。安易な展開を嫌い、執拗な反復で聴き手を暗闇に引き込むスラッジーな『Celestial』がISIS系ポストメタルの原点であるからして、これだけで語れるほど彼らの音楽は簡単ではないが、この構造がわかりやすい魅力であることは確かだろう。GROWN BELOWにしても例外ではなく、ポストメタルの静と動の型を忠実に体現している。

ここで活躍するのが前述のメロディだ。静の部分にポストロック的メロディを置くことで、一般的な型におけるアトモスフェリック→スラッジという落差に、陽性の歌→陰性のグロウルという落差を付け加えている。すなわちポストロック的メロディは、そのメロディ自体の珍しさに加えて、構造への寄与という形で彼らの音楽性を特徴付けており、なるほどそのメロディは、GROWN BELOWの次世代ポストメタルバンドとしてのフィニッシュホールドとなり得るだろう。

リズム

ひとつだけ残念なのがドラムパターンだ。多くのパートで、いわゆる4つ打ちの部分に明確な拍を持ってきている。アイシスラッジでは特にシンバルを用いてよく行われて強くリズムを意識させるそれは、しばしばスラッジパートなどで強力な縦ノリを生んだり、アンビエントパートでリズムを失わないために用いられる。

彼らの場合、そうしたプラス面よりもマイナス面のほうが目立つ。負の影響のひとつがメロディパートのメロディ性過剰化である。光の普遍性のあるメロディに明確なリズムという組み合わせによって増大したウタモノ感は、従来のアイシスラッジの“静”が含んでいるアトモスフェリックという意味を覆い隠してしまう。それによってアトモスフェリック→スラッジという意味での静から動への落差が失われてしまう。

また、ドラムの場面転換効果が薄くなっているため、どんなにフレーズや音圧を変えてもどこか平坦な印象を受ける。そして、そうした平坦さがミニマルな魅力として働くには、彼らの音楽はメロディアスだし、感情的すぎるだろう。

まとめ

音圧、展開、雰囲気、どれをとってもアイシス王国王にしてもおかしくないバンドだった……しかしただひとつの欠点はドラムが貧しすぎた。

とはいえまだ2枚目なので、今後の成長が楽しみです。

なお、文中の妙な言い回しはキン肉マンのソレでした。わからないかたはDVDでも借りるかNikupediaをご覧になることをおすすめします。

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BUSHI『BUSHI』(Math Metal):イタリア発のガイジン’s SAMURAI WORLD

神秘の国、日本

2000年代後半、大NINJAブーム到来。

事の発端は亀のミュータントNINJAが暴れまくる漫画Teenage Mutant Ninja Turtlesでした。1984年原作で、1987年からアメリカでテレビ放送が開始されたあと世界的に爆発的にヒットしたそれは、ガイジンボーイたちのNINJAへの憧れを着々と育てたいきました。そして2004年、成長したT.M.N.T.C.(Teenage Mutant Ninja Turtles Children)が何かの間違いでメロスピに傾倒し、遠く北欧スウェーデンの地で結成されたNINJA MAGICを発端として、同時多発的世界各国次々にガイジンNINJAバンドが誕生しました。また、空耳で一躍有名になったSKINDREDも昨年の新譜『Kill The Power』でそのものずばり「Ninja」というレゲエミクスチャーNINJA曲をつくっています。


JAH-AH-KOO(悪力)とは…

そうしたNINJAたちのJAH-AH-KOOな暗躍から世界を守るべく立ち上がったのが正義のSAMURAIたちです。特にチェコに誕生したグラインドコアバンドJIG-AIはその凶悪な音楽性で世の生ぬるいガイジンNINJAバンドたちをばっさばっさとなぎ倒していきました。それに続けと登場した白刃バンドがアトモスフェリックブラックメタルのHARAKIRI FOR THE SKYで、4月に発売されるみんな大好き『Aokigahara』では、昨年『Aokigahara Jukai』を出したTHRALLとともにNINJAたちを存分にUBASUTE (pronounced oo-bah-soo-tay) してくれることでしょう。さらにNINJA METALの聖地フィンランドから登場したWHISPEREDは『SHOGUNATE MACABRE』において三味線を駆使するなどするかなり高度なガイジンスラッシュ/デスメタルを披露し、「コレガSAMURAI METALダ」とNINJA MAGICに宣戦布告しています。


「人が来ませぬか」
「行けども行けども、人ひとりおらぬ」

BUSHI

そうしたNINJA対SAMURAIの血に溢れた争いによって荒廃した世を直すべく立ち上がったのが、INFERNAL POETRYやDARK LUNACYのドラマーとしてで活躍しているAlessandro Infusini氏のソロプロジェクトBUSHIです。BUSHI!記念すべき初作品となる『BUSHI』は、以下のようなコンセプトで作られています。

Bushi is a japanese word for ‘Samurai’, the military nobility of medieval and early-modern Japan and the whole album deals with the key-words of the Samurai world.

BUSHIは、中性や近代の日本における軍事階級であったSAMURAIのことを示す言葉。本作は全編SAMURAI WORLDのキーワードによって構成されている。

  1. 1.Rolling Heads 03:23
  2. 2.The Cherry Tree 02:49
  3. 3.A Well-aimed Blow Of Naginata 03:15
  4. 4.Runaway Horses 03:15
  5. 5.The Book Of Five Rings 03:26
  6. 6.Typhoons 03:09
  7. 7.Hidden In Leaves 03:09
  8. 8.Death Poems 03:35

「ヘイ!WHISPEREDもそうだけど、クマドリでローリングヘッドって、それBUSHIっつーよりKABUKIだよ!確かにSAMURAI WORLDではあるけど!」という気持ち、あるいはその他もろもろの気持ち、高まる。でもわかる。BUSHIはあくまでBUSHIであって武士ではないの。これはあくまでジャパニーズガイジンにとってのSAMURAI WORLDであって、あたしたちの侍の世界とは違うの。すなわち日本の常識を一方的に投げつけるのはYABOでBUSUIってもんよ……。

このように世界観はいかにもガイジンといった風情ですが、曲のほうは正しき心を感じる快活な変拍子系メタルです

現在変拍子系メタルには大きく2つの潮流があります。ひとつは(1)DREAM THEATERを発端としたプログレッシヴメタル、もうひとつは(2)MESHUGGAHを始祖としPERIPHERYが完成させたジェントです。ここに(3)THE DILLINGER ESCAPE PLANが提示したマスコアも加わって、それぞれが交わりつつさまざまなバンドがこの界隈にひしめいています。それぞれに重視されるものをものすごく単純に書くと、(1)展開、(2)グル―ヴ、(3)変態度合となるでしょう。

BUSHIの曲はギター/ベースとドラムのポリリズミックな絡み合いが主軸となっています。すべてチューニングをGにあわせているという、なんだかよくわからないけどとりあえずヘヴィに繰り広げられるそれは、展開というよりもグルーヴを聴かせる構成で、そういう意味ではジェント的です。ただし、メタルコアにおけるブレイクダウンの亜種的な使われ方をすることが多いジェントのグルーヴとBUSHIのそれとではやや趣が異なります。それでは一体その趣、いやOMOMUKIとは何なのでしょうか。

本作には上述したコンセプトの他に、もうひとつ音楽的なコンセプトがあります。それは歌詞に関するものです。実際の歌詞とともにそのコンセプトを見てみましょう。

Lyrically every song is a little haiku, a short form of Japanese poetry.
歌詞は全曲、少しばかり日本の短詩である俳句を意識したものになっている。

Down on the valley
clanging of armors fighting.
No face left to see.

はい、日本の心HAIKU入りました。日本語の俳句と同様、英語の俳句でも五-七-五が基本となっており、本作の歌詞はそれにならっているようです(※ただし区切りは音節で、必ずしも五-七-五でなくても良い様子。しかしながら影響が大きいのは歌詞そのものよりも、この歌詞を歌うボーカルのほうです

俳句ではなく短歌ですが、ニュースなどで宮内庁の歌会始を見ると、区切りの終わりを長く発音することがわかります。また、日常会話よりも抑揚を効かせた発音になっていることもわかるでしょう。本作でもそのUTAismを継承しており、長音を用いた抑揚の効いたボーカルが採用されています。また、コーラスが多めでリヴァーヴも強く効いており、さらに配置が中央でなく左右に振られているため、非常に音場が広く感じられます。

こうしたボーカルスタイルについて、Alessandro氏は以下のように述べています。

…vocal approach near the Psychedelia era.
(ボーカルはサイケデリック文化のそれに近い)

前述したボーカルのアレンジは確かに実態の不安定さを演出する方法でもあり、サイケデリックな効果をもたらします

それではこうしたボーカルが変拍子多用の演奏と合わさるとどうなるのでしょうか。変拍子を交えながら異なるリズムが並行して鳴らされるポリリズムは、間違いなく聴いている個人のリズム感覚を狂わせます。狂わされたリズム感覚に、さらに幻覚作用のあるボーカルが乗ったとしたら、二重の意味で現実ならざる感覚にさらされることになります

こうして同調して働くリズムとボーカルですが、そこにギターが加わるとまた新たな関係性が見えてきます。それは平静と情熱の対比です。俳句をもとにした抑揚の効いた歌は曲のなかで静的な要素として働きます。一方で、明朗に重低音を鳴らすギターと、マス的ではありながらも力強く歩を進めるドラムの、その両者のアンサンブルは、曲に躍動感を加えます。すなわち、その点ではボーカルとリズムは相反する属性を持っているということです

静的なボーカルと動的なリズムアンサンブルという異なる属性の演奏が、それぞれ高められた幻覚成分によって親和している。混ぜこぜになる情緒と景色、感覚。これが本作が醸すOMOMUKIの理由であるといえるでしょう。そしてそれは、圧倒的な強度とリズムで聴き手をOBZENの境地へと誘うMESHUGGAHと、その非平常性という点で共通しており、なるほど、これはBUSHIがZENして開眼するアルバムだったのです。

ガイジン万歳

7曲目で突然「武士道は死んだ……」とか言い出してNINJAにジョブチェンジする不届きものもでてきて、最期は辞世の句を読んで締められる本作。そうした負け戦や死にある種の美しさを感じるのは日本でも海外でも変わらないのでしょうか。ともかく、BUSHIとド直球にバンド名にしたり、HAIKUを全面に押し出したりと、日本文化の取り入れに関してはガイジン勢随一と言って良いでしょう。基本的にマッチョなマスメタルなのでジャパニーズワビサビみたいなのはありませんが、一曲一曲コンパクトに展開することもあって、非常に楽しく聴ける一枚です。ガイジンバンドが大好きな私ですので、これからもガイジンサムライ一派筆頭としてがんばってもらいたいところです。

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ASTRONOID『Stargazer』:卒業論文です

1. 緒論

みなさんは音楽が好きだろうか。

私は好きだ。

ASTRONOIDの『Stargazer』。本作を聴いて改めてそう確信した。そしてこう誓った。メタルの中でも闇の属性が強い音楽を好むものによくありがちな、「音楽が好きだ」と率直に発言するのを恥とし、「IラブMUSIC」的姿勢を敵視し、「最近映画を良く見てる」「音楽なんてひまつぶし」「〇〇は終わった」などとニヒルな中学生思想にまみれながらも、そのくせ音楽から離れられないコジラセ系アングラメタラーには決してならないと。

ド直球にもう一度いう。私は音楽が好きだ。そしてこの作品が好きだ。

いや、私とて10代でヴィジュアル系の啓示を受けてCageの中の虜(実際はピエラー)になってから今までずっと音楽を第一に生きてきたのだ。だからこそ、この作品が大多数のリスナーにとってダサいってことはよく理解できる。その辺りは、そもそもアストロノイドのスターゲイザーっていう時点で多くのかたに「あっ(笑)」と察してもらえるだろう。それでも私は声を大にして言いたい。これ、最高にかっこいい。ダサかっこいいとかじゃなく、ただかっこいい。

これほどまでに自分の音楽観とあった作品に、人生で一体何度出会えるのだろうか。そんな貴重な機会を得たため、以下になぜこの作品の概要と、なぜこの作品がこれほどまでに私の心を捉えるかを記していく。

2. バンドおよび作品概要

2.1. ASTRONOIDとは

ASTRONOIDはBrett Boland、Daniel Schwartz、Casey Aylward、Matt St. Jean、Mike DeMelliaの5人からなるマサチューセッツ州の5人組メタルバンドである。2012年に結成された若いバンドだ。音楽的な特徴を簡単に並べると、感情のこもったトレモロと浮遊感のあるボーカル、そして高速ドラムビートと言ったところで、既存の言葉で端的に表すとポストブラックメタルとかシューゲイザーブラックとか、そういうものになるだろう。そのシューゲイザー的特徴についてはFacebookの情報欄に「Astronoid is a Shoegaze metal band from Groveland Massachusetts.」と記されているように、本人たちも認めるところである。そして、本人たちは自称してはいないものの、ブラックメタル――特にポストブラックメタルの影響下にあることは、「影響を受けたもの」にALCESTを真っ先に挙げていることから間違いないと言えるだろう。

2013年7月19日にニューヨークのブルックリンで初めてのライブを行ったあと、定期的にライブ活動を行っている様子。Facebookを見る限り、昨年『Sky Swallower』が話題となった新進気鋭のアトモスフェリックブラックメタルバンドVATTNET VISKARと親交が深いようで、INTRONAUTとともに行われた彼らのツアーのメンバーとしてASTRONOIDのBrettが参加しているようだ。そういう意味でも、やはり彼らはポストブラックメタルシーン、ないしポストメタルシーンのなかにいると言える。

現在確認できる彼らの作品は『Novemver EP』(でも発売されたのは5月)、MY BLOODY VALENTINE「Only Sharrow」のカバー(こっちは11月に発売)、そして本作『Stargazer』である。

2.2. メンバー

(1) Brett Boland

ASTRONOIDの中心人物(※)。マルチプレイヤーだが、一番演奏歴が長いのはドラムのようだ。マサチューセッツローウェル大学の音楽録音技術プログラムを卒業し、現在はGame Creek Videoというモバイルテレビの製造販売会社(?)で働いている。また、Universal Noise Storageという録音スタジオのスタッフでもあるようだ。
※Bandcampページの「Written and Performed by Brett Boland」という記述から

(2) Daniel Schwartz

ベーシスト。Brettとともに本作のマスタリングとミックスを手がけている。また、Fender Rhodesというエレクトリックピアノも演奏している。

(3) Casey Aylward

ギターボーカル(Twitterに「Guitar and vocals for Astronoid」と記述あり)。本作ではソロを演奏している。HETFIELD & HETFIELDというなかなかかっこいいマスっぽいハードコアバンドのほか、ソロでも活動中。

(4) Matt St. Jean

Facebookのメンバー欄に記載があるものの、クレジットがないため何をやっているか不明。おそらくライブ時のメンバーだろう。バークリー音楽大学卒業後、appleで働いたりしている。すごいなそれ。

(5) Mike DeMellia

ギタリスト。FEELS LIKE HOMEというエモいパンクバンドでも活動中。本作にはクレジットなし。

2.3. 『Stargazer』

本作『Stargazer』はBandcampに「This is a concept album.」との記述があるとおりコンセプト作品である。「Stargazer」=“星を見つめし者”という壮大なコンセプトは、ASTRONOIDという宇宙規模のバンド名が持つ彼らの作品に相応しい題材だろう。

とはいえその作品自体は2曲の小曲を含む4曲と、コンパクトに収まっている。そしてそのことは、宇宙規模である壮大なテーマが異常な密度でもってたった4曲に収まっていることを示している。

本作発売にあたり、彼らはKhrysanthoneyというポストブラックやデプレッシヴブラックを扱うアメリカの独立系レーベルと契約している。(Bandcampには書いてないが、ダウンロードした際についてくる背面画像に記載がある)

Khrysanthoneyのウェブページにはこのように書いてある。

I love anything rich in atmosphere and emotions- I don’t care if it’s aggressive & bombastic like Astronoid…
(我々は豊かなアトモスフィアとエモーションを持ったバンドが好きで、そうであればたとえASTRONOIDのように攻撃的だったり仰々しかったりしてもかまわない)

この文章は彼らの音楽を非常に的確に表しており、Khrysanthoneyというレーベルが彼らの良き理解者であることを示している。次章では彼らの音楽性について言及していくが、上記の言葉を頭に置きながら読むとより理解が進むことだろう。

3. 作品の構造解析

3.1. ブラックメタル、ポストブラックメタル的観点

前章により、彼らの音楽性を考えるにあたってポストブラックメタルが重要な要素であることがわかっていただけたと思う。したがって、まずはその観点から本作をひも解いていきたい。

(1) ALCESTとDEAFHEAVEN

ポストブラックメタル。シューゲブラック。そうなると当然頭にはあのオネショタジャケットFOREVER21コラボジャケットが思い浮かぶわけだ。それでは、まずその辺を整理していくことから始めよう。

ALCESTを率いるブラックメタル界のショタァ…ことNeigeが発見したのは、一部のブラックメタルが持つ輪郭の不安定なトレモロとシューゲイザーが持つ輪郭の不安定なリヴァーヴって似てんじゃね?ってことだった。そしてその二者の精神的基盤から来る雰囲気――すなわち禍々しさや寒々しさと甘美さを一旦排除し、そこに自らのショタの楽園“フェアリーランド”を据えて再度メロディを構築することで、サウンド的にもバックグラウンド的にもブラックメタルとシューゲイザーを融和させた。そういう意味で、彼がインタビューでも語っているように、彼の作品の核は「ボクもショタァ…されたひ…」という“フェアリーランドへの憧憬”である。つまりALCESTはブラックメタルではなく“フェアリーランド”音楽であって、だからこそブラックメタルを超えたポスト“ブラックメタル”を体現するに至ったのだろう。

一方で去年世間を騒がせたDEAFHEAVENだが、彼らの作品は明確にALCEST以降と呼べるものだった。というのは、ALCESTが提示したブラックメタル+シューゲイザーを完全に手法として用いているからだ。ALCESTがやったブラックメタルとシューゲイザーの“フェアリーランド”における邂逅を、その核を取っ払ってしまって、代わりにポストロックやポストメタル、激情ハードコアといった近年のポスト/アトモスフィア勢のやり方を総動員し、いわばポスト/アトモスフェリックのブラックメタル版総決算と言える作品を作り上げた。だからこそ進歩的高偏差値音楽メディアの筆頭Pitchforkが「ポスト大好き!」と絶賛したわけだ。それはハイブランドのデザイナーがその年のコレクションで提示した“今年の流行”を臆面もなく取り入れて一般層へ普及させるファストファッションブランドの如しで、ここで私は彼らに“ファストブラック”(意味が違う)の称号を与えたい。……話がそれたが、彼らは「ブラックメタル以上に影響を受けた音楽はありません」と発言している。なるほど、ポスト/アトモスフェリック要素をあくまでブラックメタルの枠内で聴かせる彼らの音楽は間違いなく“バンドサウンド”であり、ブラックメタルなのである。すなわち彼らのポストブラックメタルは、ブラックメタルのジャンル内での“ポストブラックメタル”なのである。

そうした観点から見てみると、ASTRONOIDの本作は間違いなくDEAFHEAVENと同様“ポストブラックメタル”の流れに置ける。すなわちブラックメタル的バンドとしての強度を持ちつつ節々に浮遊感を漂わせている。

(2) ブラックメタルおよびポストブラックメタルバンド同士の比較

ここでブラックメタル“的”バンドとしたのは、世の中にはブラックメタルに尋常ならざるこだわりを持っているひとたちがいて、そういう人たちの基準からするとASTRONOID、さらにはショタ願望が強すぎの内省バンドALCESTやクソサブカル眼鏡ご用達高偏差値バンドDEAFHEAVENも含めたポストブラック勢は明らかにブラックメタルではないからだ。だからこそ“ポスト”ブラックメタルなわけであって、普段ポストブラックを聴いたり肯定的だったりする私にしても、「あいつらはブラックメタルじゃねー」と言われれば「わかる」と答えることに後ろめたさはない。だってブラックメタルじゃないし。この辺りは2000年代初頭に持ち上がった「青春パンクはパンクじゃない」というスターリン原理主義者と175Rキッズの関係性と似たものを感じる。パンクの形骸化、という言葉でしばしば語られたそれは、しかしながらその対象としている“パンク”はそもそもパンクではなかった。そりゃパンクじゃないよ。だって“パンク”だもん。

事の本質はALCESTがブラックメタルか否かということではない。 “ブラックメタラー”が“ブラックメタル”をあたかもブラックメタルのように扱い、そしてブラックメタラーのごとく振る舞うことが彼らにとっては問題なのだ。すなわちそれは「(おれの基準からすると)間違ってるのにシタリ顔」ということだ。つまりブラックメタルを自称しているデッヘヴンはなるほど確かにブラックメタラーの怒りの業火に焼かれるべきで、それをブラックメタルとして持ち上げている数々のメディアはすべからく地獄の業火に投げ込まれ腹を切って死ぬべきだ(もちろん私も含めてである)

それでは何を持って“ブラック”とするのか、あるいは何を持って“ポスト”とするのか。それぞれの特徴を並べて比較してみよう。その中で、ASTRONOIDがその他のバンドと比べてどういった面で特徴的なのかが見えてくるはずだ。

表1. 各ポストブラックメタルバンドおよびブラックメタルファンにおける特徴的な性質

ALCEST DEAFHEAVEN ASTRONOID 厳格なブラックメタラーのAさん
ボーカル 甘い唄、絶叫 コレヤバァアァイwwww リバーヴの効いたのびやかな唄 ダミ声
ギター シューゲ トレモロシューゲ トレモロシューゲ、リフ 寒々しいトレモロ
ドラム 高速ズダズダ、アトモスミドル 高速ズダズダ、アトモスミドル 高速ズダズダ、ツーバス疾走、ブラスト 高速ズダズダ、ブラスト
メロディ 幻想的 爽快感 哀愁、感傷 Mayheeeeem
精神性 フェアリーランド ブラックメタルバンド メタル、星を見つめし者 悪魔崇拝、反社会

※ベースは本稿の流れからいくとあまり重要ではないので省きました。ゴメェン
※厳格なブラックメタラーAさんはあくまでAさんの基準です。

こうして見るとALCESTとDEAFHEAVENは絶叫+高速ズダズダという部分で“ブラックメタル”とされていることがわかる。この基準は厳格なブラックメタラーのAさんのボーカルおよびドラムにも該当している。確かに高速ズダズダと絶叫の両立は他のメタルにはそれほど見られない特徴で、だからこそこの二つの要素を持つというだけで――発売レーベルや関連バンド、インタビューの発言なども考慮されるにしろ――従来とは雰囲気の異なる彼らがブラックメタルの範疇に収められているわけだ。

一方でASTRONOIDはどうか。高速ズダズダは見られるものの、他の三者に共通してみられるダミ声がない。この絶叫は――あるいはグロウルでも良いのだが――ブラックメタル的にはかなり大きな要素だ。確かにALCESTが新作『Shelter』で「モテたいと思ってもモテないので――そのうちネージュは、叫ぶのをやめた」をした結果、多くの聴き手が「SLOWDIVE??」と高らかに手を掲げて太陽を仰ぎ見た。

カバー画像
「SLOWDIVE…?」「Yeah」

とはいえALCESTは叫ぶのをやめたと同時に高速ズダズダもやめている。ALCESTがブラックメタルである証みたいなものを両方取ったらそれはもはや“ブラックメタル”でさえなくなるだろう。

一方ASTRONOIDは思う存分高速ズダズダをやっている。とは言うものの、“ブラック”要素のうち片方を失った彼らの曲は、この点ではかなりブラックメタルから遠ざかっているとは言える。

(3) メタルバンドとしての強度

冒頭で示したように、確かに彼ら自身にしても名乗っているのはシューゲーザーメタルであり、ブラックメタルやポストブラックメタルではない。そもそも私が彼らを「ブラックメタル的バンド」としたのは、その出自もさることながら、DEAFHEAVENの存在が故だ。彼らが“ブラックメタル的要素を持ったメタルバンド”を“ブラックメタルバンド”として広く認知させたからこそ、ASTRONOIDをあっさりとその流れに置くことができた。そういった意味でやはりDEAFHEAVENがポストブラックメタル界に与えた影響は大きいだろう。

上で述べたように、DEAFHEAVENの大きな特徴はそのバンドサウンドである。ふわふわしていたポストブラックメタルというジャンルをきっちりと骨太に仕上げてきたのが『Sunbather』だった。ALCEST系シューゲイザーブラックメタルやWOLVES IN THE THRONE ROOM系アトモスフェリックブラックメタルは、その空気感を出すためにギターをガンガンに歪ませているために従来のブラックメタル同様肉感は薄い。そもそも、ポストロックやポストメタル、ポストハードコアももしかしたらそうかもしれないが、“ポスト”という言葉は肉感を排除した音楽に冠せられることが多いことからも、この音作りは当然だろう。そうしたポスト的音作りを根底におきながら、あくまでバンドサウンドを志すことで、ポストブラックメタルにある似非ブラックメタル感をできる限りブラックメタルに近づけた。だからこそPitchforkがわざわざ「ジャンルに関わる議論は重要じゃない。今年出たブラックメタルアルバムのなかで、本作がいかに素晴らしいかを考えようじゃないか」と言ったわけだ。要素で見れば高速ズダズダ+絶叫という単純なやり方がブラックメタル性を担っているが、音楽的バックグラウンドの強度がそのふたつの効果を高めているのである

それと同様に、ASTRONOIDもバンドとして強度が高い。そして彼らがDEAFHEAVENと異なるのは、その強度が“バンド”的であるのに加えて、“いわゆるメタル”的でもあることだろう。表1を見るとわかるが、彼らの曲には高速ズダズダとブラストビートというブラックメタル的リズムパターンの他に、疾走ツーバスドコドコというキングオブメタァル!なフレーズが見られる。さらに、ギターの音も非ブラックメタル的な肉感が強い。基本的に従来のブラックメタルはざらっとした音質が主流で肉感はあまりない。だからこそその流れで雰囲気重視のポストブラックギターが成り立ったわけだ。一方でASTRONOIDのギターは、ブラック的トレモロ感とポストブラック的シューゲ感を保ちながらも、音の厚みを増している。そうやってリフとリズムをしっかり固めることで、ブラックとポストブラックの両者の特徴を持ちつつ王道メタルのような力強さを醸している。そして逆説的だが、この王道メタル的強度がメタルバンドとしての強度に繋がり、それが前述したブラックメタル的要素を“ブラックメタル”として成立させているのである

(4) 歌とその旋律の特異性

こうした側面にさらに特徴を与えているのが、シューゲイザー直系の残響が効いたボーカルだ。このボーカルスタイルはALCESTでも盛んに使われているが、それは渦巻くギターと一体になって幻想世界の雰囲気を構成するひとつの要素だった。一方でASTRONODの場合は完全に歌として機能している。深い反響をたずさえながらも伸びやかに歌い上げるそのメロディはなんとも言えない感傷と哀愁をはらんでおり、思わず一緒に口ずさんでしまう魅力を持っている。

この歌声は、前述のメタルバント的強度が、その強度が故にシューゲイザー要素を完全に覆ってしまうことを避けている。“唄”という主役級の位置にシューゲイザー要素を噛ませることで、ポスト系特有の浮遊感とバンド強度を両立させている

また、メロディに含まれる哀愁というのも彼らのひとつの大きな特徴だ。そのメロディに陰湿さや暴力を持つ従来のブラックメタル、その思想的背景が故にメロディが幻想と憧憬を放つALCEST、そこから思想性を抜いて感傷が増したALCESTフォロワー、そしてそこに爽やかさを足して多くの支持を得たDEAFHEAVEN。それらのどれとも異なる旋律。哀愁。そしてこの旋律は、“いわゆるメタル”的暑苦しさと大いに共通している。彼らが疾走しながら歌を歌っているとき、そこに垣間見られるのはまぎれもなくメロスピ魂だ。そこに齟齬はなく、メタルはメタァルのまま機能している。一方でその声はポストブラック的な優男の線の細いそれであるし、そこに加わる反響効果によって、メタル的暑苦しさは大いに減退している。

ポストブラックとしての下地と強力なバンドサウンド、それぞれの要素が見事なバランスで組み合わさることで、本作はポストブラック的壮大さと、メロスピ的仰々しさを両立し、さらにそれぞれの感情と攻撃性を宇宙的次元で融合させている。そしてそのサウンドのハッタリのデカさは、そのままASTRONOIDの『Stargazer』――似非宇宙の『星を見つめし者』という宇宙規模のテーマに繋がっていく。

3.2. コンセプト作品としての『Stargazer』

前述した通り、本作『Stargazer』はコンセプト作品である。この件についてはBandcampの記述以外に言及はない。したがって、まずは表題やアートワークから大まかな物語を読み取ることにしよう。

(1) 表題『Stargazer』――星を見つめしもの

見つめる、という言葉が創作物に使われる時は、単純に「見る」ないし「注視する」という行為を示すだけでなく、そこに何かしらの想いがある場合がほとんどだ。瞳を見つめるときは恋愛感情が絡むし、背中を見つめる時は慕情が浮かび上がる。

それでは、星を見つめる場合はどうだろうか。通常、我々は星を見つめはしない。いや、行為として見つめることはあるが、言葉としては「見上げる」のほうがしっくりくるだろう。したがって、この『星を見つめしもの』という表現は、詩的な装飾以上に、我々に我々以外の何者かの存在と、その何者かの感情を想起させる。そしてASTRONOID=宇宙のようなものというバンド名は、確実に“何者”のヒントとなる。そう、バンド名と作品名の時点で、例え本作がコンセプト作品だという情報がなかったとしても、我々はこの作品が宇宙規模の物語であると認識できる。そういう意味で、このバンド名と作品名の組み合わせは完璧と言ってよい。

(2) 曲名

本作は2曲の小曲を含んだ4曲の作品だ。それぞれタイトルは「The Stargazer(星を見つめしもの」、「Detachment(脱離)」、「Light Speed(光速)」、「Prologue: Equilibrium(序章:平衡)」となっている。曲名をこうして並べただけでもある程度物語が見えてくる。すなわち「星を見つめしもの」が「脱離」を起こし「光速」で「平衡」へと至るという物語である。「平衡」は「序章」でもあるが、そこに“宇宙”というキーワードが加わることで、これが宇宙の終わりと始まりの物語であると我々は予想するだろう。

それでは次に、各曲の歌詞を見ていこう。和訳は筆者によるもの。一部苦しい部分があるので助言をいただければありがたい。

(3) 「The Stargazer」

I write this my adored 親愛なる君
I’ve come to let go 手放していく
your eyes, the skies 君の瞳 この空
Materialize 形作られて

Release me from this state 波動で変容した
Transformed by waves この状態から解放してくれ
I’ve come too far 遠くからやってきた
To drown in stars 星々に溺れるように

I will be gone じきに離れてしまうだろう
from the summer sky この夏の空から
Forgone 捨て去って

Don’t be afraid 心配しないで
We will burst away 僕らは散り散りになる
I’m gone もうすぐ

This is my goodbye これがお別れの挨拶
I’ve come to realize わかったんだ
In this end この終わりに
Life begins 生命は始まる

I will be gone じきに離れてしまうだろう
from the summer sky この夏の空から
Forgone 捨て去って

Don’t be afraid 心配しないで
We will burst away 僕らは散り散りになる
You’re gone 君もともに

We will float 漂って

ご覧いただければわかるように、これは君と僕の物語であり、いわゆるセカイ系と呼べる代物だ。それでは君と僕、一体どちらが「星を見つめている」のだろうか。「星々に溺れる」という表現から、主人公は星の外部にいると考えられる。しかしながらここで留意したいのは、comeやgone、あるいはtransformedといった単語が主人公に対し散見されることだ。主人公は一定の状態ではなく、せわしなく変化を遂げている。gazeという単語はどちらかというと静的な状態から「ぼんやりと見つめる」、「じっと見つめる」という意味合いが強い。したがって、主人公がThe Stargazerであるというのは今いちしっくり来ない。

それでは“君”がThe Stargazerであるとしたらどうか。“君”の状態はほとんど描写されていないが、ひとつ重要な言葉が出てきている。「Your eyes」だ。なるほど、“君”が夏の空を見つめているとしたら、いろいろと納得が行く。すなわち、“君”=The Stargazer=my adoredであり、“僕”=Starであって、これは僕から君への別れの手紙である。夏の空には星々が瞬いており、その空を過ぎ去る主人公は、自らの変容を止められず、おそらくは君のいる場所もろともburst awayしてしまう。しかしながら主人公はそれが“何か”の始まりであることを理解しており、だからこそ君に「Don’t be afraid」と投げかける。一方でtransformedとburst awayによって主人公が主人公でなくなることは、「This is my goodbye」という部分から読み取れるだろう。

(4) 「Detachment」

脱離、と題されたこの曲は言葉のない小曲である。脱離を起こした主人公は、次の状態へと変容していく。

(5) 「Light Speed」

The future is coming too close 未来はそこまで来ている
Progress beyond our control 事態はもはや制御を超えた

Intentions becoming clear 意思は明確になりつつある
Discard the boundaries of fear 恐怖の枠を捨て去るんだ
We’re going to explode 僕らは散り散りになる
We’re going to float 僕らは漂う

Human, now obsolete 人間、今や過去のもの
Acknowledge the ends near complete 終わりが近づきつつあると認めよう

We’re going to explode 僕らは散り散りになる
We’re going to float僕らは漂う

Feelings distorted seem slow 歪められた感情はゆっくりと見える
Vision contorted, faint glow 視覚はよじれ、朧が覆う
We’re going too slow 僕らはこんなにもゆっくりと
We’re going to float 僕らは漂う

Physical vessel corrodes 物質的な器は廃れ行き
Celestial bodies implode  天体は崩壊する
We’re going to explode 僕らは散り散りになる

I have realized やっとわかったんだ
Life was in your eyes 生命は君の瞳にあった
Your eyes were the skies 君の瞳はこの空だった
This is my goodbye これは僕だけの「サヨナラ」だ

序盤から終盤にかけて、徐々に世界の崩壊が進んでいく。繰り返される「We’re going to explode」というフレーズ。しかしながら最後に主人公は気づく。「Life was in your eyes」。君の瞳こそが生命であり、この空だったのだ。#1「The Stargazer」で主人公が言っていたLife beginsは、Your eyes beginsだったのだ。であればexplodeすると思われていた君は、決してweには含まれない。だからこそThis is MY goodbyeと、改めて、そして最後に主人公は告げたのだ。

この事実を知ったあと、改めて「The Stargazer」に戻るとDon’t be afraidの空虚さが際立つ。僕と君の物語であったそれは、実は僕の物語でしかなかった。僕は、そして僕の世界は、途方もない超宇宙的規模の存在の君にとってはその眼の瞬きでしかなかったのだ。

(6) 「Prologue: Equilibrium」

光速で崩壊した世界のあと、再び平衡を取り戻した彼女の瞳は、また新たな星を見つめている。その瞳の奥には、一体いかなる感情が秘められているのか。

この曲に歌はない。しかし、ダウンロードしたファイルには「Energy」と、一言記載されている。主人公のいた世界の崩壊は、次の世界を、そして彼女の平穏を保つための力となったのか。

お気づきの通り、曲のほうは「The Stargazer」とthe冠詞がついているが、作品名は『Stargazer』と無冠詞である。1曲目のStargazerは主人公にとってはかけがえのない君であるが、全体としては主人公は見つめられる星のうちのひとつにすぎず、Stargazerと主人公は一対一の関係ではない。theの有無は、そうした構造を示している。

(7) アートワーク

切り立った岩場から蛍光色の何かがたれているような絵だ。おそらくこれはCelestial bodies implodeという一節を表しているのだろう。あるいは、君の瞳から涙のように流れる星々を表しているのかもしれない。

本アートワークはLully Schwartzという女性アーティストによって描かれたものである。彼女の他の作品を見ると風景画が多く、また、色使いも淡いものが多い。本作のアートワークは普段の彼女の作風からすると少し異色のものとなっている。

(8) 物語としての『Stargazer』

トリックとしてはいかにもなSFで、壮大でありながら君と僕で完結するというあたりはモロに厨セカイ系だなあ、という感じではある。しかしながら平成仮面ライダーシリーズを愛していたり、何かの間違いで道端に倒れている瀕死のドラゴンと契約して代償に声を失ったりしねえかなと思っていたりするゲーム脳(厨バージョン)の私としてはもうタマランズビッな内容であるし、your eyesやthe skies、relalize、this is my goodbyeといったキーワードをしっかり回収して仕上げているあたりや、作品2周目にそれぞれの言葉がまったく違った意味を持ってくるあたりは、たった4曲しかないとはいえコンセプト作品として十分評価できる出来だろう。

コンセプト作品としての完成度は、そのまま音楽にも還元される。シンプルな言葉で語られるこの物語は、前述の哀愁メロディと唄に乗ると非常に強力な意味を持つ。そしてそれは、“フェアリーランド”への憧憬が込められたALCESTの作品と同様の意味で作品にある種の精神性をもたらしていることを示す。

そう、本作は、そのバンド強度とコンセプトによって、DEAFHEAVEN的なポストブラックメタルでありながら、かつALCEST的ポストブラックメタルでもあるのだ。

4. 各曲論

それでは、以上の音楽検証と歌詞検証を踏まえながら、各曲を改めて見て行こう。

(1) 「The Stargazer」

我々メタラーが秘めるメロスピ魂を、あるいはもしかしたらハードコア野郎が秘めるクラスト魂をこじ開けるような力強いツーバス8ビート疾走と哀愁のトレモロリフで幕を開ける。この時点で私は涙ブワッ状態だったのだが、驚いたのはやはりその歌が入ってからだ。前述の通り彼らの歌は一音一音が長く、非常に伸びやかである。ともすれば冗長に感じる歌唱だが、この曲では歌が入ってもまったく速度感が落ちていない。肝はドラムだ。イントロが終わり歌が入ると同時に、ドラムのビートは倍になり、ブラックメタルらしい高速ドラミングとなる。何のことはないドラムの手数を倍にしただけではあるのだが、これが宇宙的な効果を発揮している。速度感だけで言えば歌とドラムで相殺というところだが、イントロでの助走がある分、そこで蓄えた力強さは単純に速さに変換されずにリズムにも宿る。そして、相殺されたかに思える速度感は、伸びやかで反響する歌へと変容して空間的拡がりが形成される。結果として圧倒的な密度と体積を持ったまさに宇宙としかいいようがないパワーを秘めた導入部が出来上がる

そしてこのサウンドの速度感や解放感、ギミックは、間違いなく歌詞の世界観と連動している。そういう意味でも、本作がコンセプト作品として非常に優秀であると言えるだろう。

メロが終わりサビに入ると、またドラムは8ビートに戻る。それは減速ではない。解放である。歌の裏側における16ビートによって蓄えたその破壊力を、サビという空間に一気に放出する。その手助けをしているのは、やはり歌詞だ。「I will be gone」という彼方への移動を表す内容の歌詞は、言霊によって破壊力→解放感への変容の潤滑剤として働く。そして続く「Don’t be afraid」という、単純であるからこそ反響を超えて耳に届くその言葉は、驚異的な美メロの補助を得ながら流星のごとく我々の涙腺を直撃する。

細かなアレンジにも唸るばかりだ。例えばサビのワンフレーズのあとにチンチンチキチキと鳴らされるライドは、間延びしそうなメロディを補助し、速度感を保つアクセントとして非常に効果的に働いている。また、1回目のサビの前で叩かれるドラムロールにはタム(たぶん)が使われているが、2回目のサビの前ではより強力なスネアが使われている。さきほど述べたように1回目のサビはメロからの解放という意味が強いため、そこにアクセントを置いてしまうと滑らかさが失われる。したがってドラムロールは控え目になっている。一方で1回目のサビから2回目のサビへと移る際には、同じサビという範囲内での移動なので滑らかさはそれほど必要ない。それよりも、反復によるダレを抑制するほうが先決だろう。そういう意味で2回目はスネアによる力強いドラムロールになっているわけだ。非常によく練られている。

サビのあとはギターソロだ。ブラストビートと同期したトレモロソロは、はっきりいってしまえば非常に単調だ。だからこそ、良い。メロディよりもハーモニーを大事にしたギターソロは、反響する伸びやかなボーカルとの整合性という意味で抜群なのだ。ここでもし技巧的な、あるいはメロディックなギターソロが来たとしたら、おそらくその部位だけが凹凸の凸となって、故に速度感は減衰してしまうだろう。展開に含まれないその減速は決して歓迎されない違和感として働くだろう。

ハーモニックなギターソロがフェードアウトすると、再びのメロである。ここでも彼らのアレンジ力が大いに発揮されている。まず2回繰り返していたメロパートを1回のみにした。これはポップスなどでもよく使われる手法だが、8ビートとブラストというダレがちなリズムパターンでこうした短縮化は良い方向に働くだろう。次に、サビの頭にうっすらと重なる絶叫である。これまで一切封印していた絶叫を、前に押し出さずに補助的に使っている。この聴こえるか聴こえないかの絶叫は、2回目のサビの強度を1回目のサビよりも間違いなく上げている。あるいはもし、ここで絶叫を押し出していたらどうなるだろうか。ここまで述べてきたように、宇宙的空間の主軸はボーカルである。そのボーカルを絶叫で覆うということは、その空間性の廃棄に繋がる。すなわち、絶叫を強度として扱うためには、この「うっすらと鳴らす」という方法が最善なのである。

2回目のサビの最後、消えいるような「You’re gone」のあとには、本曲屈指のヘドバンパートが待ち受けている。遠慮することはない。その力強いツーバスとスネアとミュートギターにあわせて、思う存分エアギターをしながらヘドバンしようではないか。

圧倒的破壊力の疾走が終わると、一転して叙情的なアコースティックギターとベースソロが我々を出迎える。ベタとも取れるほど哀愁を醸すその旋律は、我々の“メタルスピリッツ”をさらに震わせる。ハウリングののちに繰り出されるツーバスとトレモロギター。まさに熱い血潮である。

そしてこの叙情パートは、主人公の状態変化を示唆する。これまである速度を持っていた主人公が、waves、あるいはその他の何かによって、さらなるtransformingを迎える。

変容のあとに訪れるのは、強力な表打ちの8ビートだ。これまではずっと裏打ち疾走だったが、ここで初めて使われる力強い表打ちによって一旦減衰した速度を“パワー”として徐々に充填していく。見える、私には見える。このドラム一打一打によって、“宇宙パワーゲージ”がずんずん溜まっていくのがっ!!こうして溜められたエネルギーは、続く最後の裏打ち疾走の速度感へと繋がる。そのため、クライマックスの疾走は、速度感がリセットされる以前と同等かそれ以上の速度感を持つようになっている。そして、速度の減衰→パワーチャージ→速度マックスという展開は、まぎれもない“クライマックス感”の演出となり、まさにburst awayであり、聴き手を巻き込んで次の状態へとtransformingしていく。

最後の「We will float」という言葉によって、これまで溜めてきた音が一気に空中に漂い、物語は次に続く。

(2) 「Detachment」

宇宙的な波動を感じるシンセサイザーによるアンビエント。floatした音たちが再び集まり、「Lightspeed」へと繋がっていく。

(3) 「Lightspeed」

力強く、そして細やかなドラミングからツーバスドコドコ4ビートという、「Lightspeed」=光速という言葉とは印象が異なる展開でもって幕を開ける。相変わらずドラムの一音一音は強力だし、ベースもメテオのような破壊力を持ってはいるが、「The Stargazer」と比べると単調に進んでいく。しかしながらこれは当然、そうあるべくしてそうあっているのだ。忘れてはならないのは、これはコンセプト作品だということだ。歌詞なり、アートワークなり、曲なりがすべて連携している。すなわちこの4ビートパートはDetachmentとLightspeedの狭間の、一瞬の出来事である。世界が光速に乗るまえに、無限大に圧縮された主人公の身体と思考。そこでは物質的な器は意味をなさない。「We’re going to explode」という、これから起こる出来事への予感だけが空間に大きく反響する。

はっきり言ってしまえばここは後半のLightspeed部分の前振りではある。だからこそ単調で抑揚が効いているわけだ。しかしながら「We’re going to explode」というサビにあたるキーフレーズでは彼らのシューゲイザー的部分を存分に発揮した空間解放が行われており、この前振り部分だけでも完全な“宇宙”として成立しているあたり末恐ろしい

爆散間近の感情が乗せられた渋いギターソロのあと、助走のミュートカッティングののちに空間は一気に加速を始める。キングオブメタルなミュートリフと8ビート疾走。熱き血潮。しかしながら冷静なトーンを保つ主人公の歌。「We’re going too slow」という言葉の通り、圧倒的な質量と最後の時を前に、もはや速度は意味をなさない。続くギターソロで最後の変容を遂げた主人公は、本当に最後の最後に、君こそが「Stargazer」だったのだと気づく。炸裂する肉体、そして感情。鳴り響くツーバスと打ち鳴らされるシンバル。今作一のテンションで歌われる言葉。「I have realized」。それは嘆きなのか、喜びなのか。ツーバスとともに訪れるトレモロは、言いようのない感情を保ちながら、ぷっつりと最期を迎える。

本作のボーカルの息遣いやメロディは明らかにメタルではなく、RADIOHEAD直系にあるようなオルタナ/ポストロックのそれだ。ミドルテンポの強力なリズムアンサンブルに浮遊感のあるメロディが乗るという意味では、我が敬愛のdownyに近いものを感じる。

とはいえdownyのように変拍子を駆使しているわけではない。ここまで書いたとおり、本作において“速度”がどれほど重要な位置を占めているかを思えば、それは当然のことだろう。あくまで単純なリズムパターンでありながら、歌詞との整合性とアレンジの妙で劇的に曲を展開させるその手腕には、見事というしかない

(4) 「Prologue: Equilibrium」

アナログな音質のギターによる小曲。単調なアルペジオだが、時に高まりを感じさせるその弦使いは、この「平衡」が序章であることを予感させる。

5. 総論と、あとがきと

5.1. ベタボメ

以上のように、本作はシューゲイザーが持つ浮遊感と、メタルが持つ力強さと、セカイ系が持つ壮大さを、叙情的なメロディと卓越したアレンジでもってひとつにまとめあげた超大作である。たった4曲でありながら、宇宙的規模と密度と質量と体積をもって我々を圧倒する本作は、間違いなく史上最強の作品のひとつだろう。この世に生み出されたひとつの音楽作品としての完全独立した評価でもまず間違いなく史上最強のメタル作品のひとつだし、ALCESTとDEAFHEAVENが築いたブラックゲイザーの礎を、圧倒的なメタルパワーでもって取り込んだという意味で、メタル/ブラックメタル史という文脈でも今後必ず引用していかなければならない最重要作である。そんな作品を、結成からわずか2年で生み出してしまった彼らにはただただ驚愕と感嘆と賞賛の声を送るばかりである。

そして、もちろん、以上のベタ褒めには、私にとっては、という接頭句が付く。

5.2. “史上最強”

(1) それぞれの“史上最強”

本記事では、私がなぜこの作品を“史上最強”としたのかを、できるだけ詳細に記したつもりである。もしいまいち理解できない場合は、どの辺りがわからないか遠慮なく教えて欲しい。追加で文書をしたためよう。

私は以上の長文で、一部熱意にまかせてくだけた表現をした部分はあるにしろ、歪んだ論理を使ったつもりはない。しかし論理的に説明できるからそれが正しいというわけではない。論理は音楽をひもとく道具のひとつであり、音楽は論理だけで出来ているわけではない。

多くの人にとってこの作品はALCESTやDEAFHEAVENほど衝撃的ではないだろうし、あるいはRHAPSODYやMETALLICAとなどとは比べるまでもないだろう。

それでも私はこの作品に、それらのバンドのどの作品よりも優れた点数をつける。

我々の多様性を考えれば、同じような音楽作品――例えば本作に関して言えばポストブラックなどを好むものたちの間でも、その作品のどこに目をつけ、どのように評価するかは全く異なってくるだろう。それぞれの“史上最強”が、たとえそれが同じ作品を対象としていても、全く違ったものであってもおかしくない。

(2) 史上最強と“史上最強”

もちろん、RHAPSODYの「Emerald Sword」のように、そのジャンルの“固定観念”となるような重要な意味を持った史上最強の作品は存在するし、私はそのような作品が世に出て、新しい音楽の形が見えてくることを常に願っている。そして、それと同時に、非常に個人的な規模での“史上最強”の作品に出会うこともまた願っている。いや、同時に、ではなく、“史上最強”に出会うために史上最強を待ち望んでいると言えるのかもしれない。“史上最強”の礎として史上最強による変革を待ち望んでいるのかもしれない。

(3) たったひとつの出会いの重要性

YoutubeやBandcampで気軽にいろんな作品を試聴できるようになった現在、我々はいともたやすく良質な音楽作品を、大量に見つけられるようになった。1日上述のサイトを巡れば、良い作品の10や20は簡単に見つかる。そうやってたくさんの音楽を知るということは、リスナーとしてもミュージシャンとしても素晴らしいことだろう。

しかし、ただ個人の音楽体験における感動、ということだけに焦点を置けば、1000の優良作品の存在は、1の最強作品にあっさりと敗れ去るということには、例えその膨大な作品の裏にこの出会いがあったとしても、留意しておきたい。ひとつの最強作品との出会いは、過去の音楽体験を全く別のものに変えるだけの力がある。そしてその体験は、確実にリスナーやミュージシャンとしての独自性に繋がるだろう。

(4) なぜ音楽を聴くのか?

収入の大半を音楽に費やし、大量の音楽を聴き、文章を読み、知識を深める。なぜそうした、普通のひとにはやりすぎと思える行為をするのか。それは単純に「楽しいから」だろう。そしてその楽しさの先には、楽しさを超えた体験となる“史上最強”の作品が待っているに違いないと信じているからだ。私の“楽しさ”は、まだ見ぬ“君”との出会いのための下準備でもあった。そんなことを、本作を聴いてぼんやりと感じたのだった。

5.3. ASTRONOIDGAZER誕生

というわけで、私は本作によって、これまでのランギラスという器から脱離し、ASTRONOIDGAZERという新たな存在としてのランギラスとなって生きていくことになりました。今後も彼らの動向を注視していきたいと思います。

6. 謝辞

ここまで読んでくださってありがとうございました。そして何より、ありがとう、ASTRONOID。

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Bandcampが養った「買う」から「サポートする」への意識変化、およびDIY精神

事の始まり

3LAというレコード屋があります。クラストや激情系のハードコアを中心に、店主のミズタニ氏が選りすぐった素晴らしい作品を販売している、そのスジのひとには説明不要なくらい有名な、信頼できるディストロショップのひとつです。

現在(3月14日まで)3LAではスペインのくそカッコイイハードコアバンドICTUSの再発のためのサポート企画を行っています。

http://longlegslongarms.jp/3la_releases/3/ictus.html

それに対して2ちゃんねるの激情スレPart4で以下のような書き込みがありました。

806 :NO-FUTUREさん:2014/03/04(火) 22:26:36.82 ID:???
3LAのサポート企画やべぇな~ボッタクリプライスもいいところ

企画の趣旨が全く伝わってない!しかもたぶんべつにそんなに高くない!3だけ全角!「~」のあと間髪入れずに次の文!などと思っているとツイッター上で以下のような発言が出ていました。(元発言はミズタニ氏への個人的なリプライだったのでリンクは外してます)

パンク聞いてるのに一方的な消費者として振る舞うって、楽しいのかなぁとは思いましたが。

この「パンク聞いてるのに一方的な消費者として振る舞う」という部分が、個人的にすごく「なるほどなあ」と思ったのでした。そして以下のような発言をしました。

というわけで、この発言についてさらに掘り下げていきます。

Name Your Price

当Decayed Sun RecordsではBandcampを通して作品を配信しています。Bandcampはクレジットカードさえあれば誰でも手軽に作品を配信/購入できるサービスです。AmazonやiTunesと異なり、以下のような利点があります。

  • 販売側、購入側ともに基本的には無料で使用できる
  • mp3の他にFLACなどの非圧縮のファイル形式を選んでダウンロード可能
  • 現物販売/購入の機能もあり

このように、独立系レーベルやアマチュアミュージシャンにとって大変ありがたい仕様で、さらに購入側にもメリットが多いため、Bandcampは数年のあいだに大きく普及しました。現在では大手レコード会社――メタル系ではRelapseも利用しているくらいには規模のある音楽サービスです。

Bandcampでは、配信側が自由に作品の値段を設定できます。10ドル、3000円といった固定価格の他、〇〇円“以上”という指定もできます。その中で、0円以上――すなわち購入者がその作品の価値を自由に決められる設定をName You Price(以下NYP)と言います。レーベルと契約していないようなアマチュアミュージシャンの多くがこの価格設定にしているほか、JESUやLIGHT BEARERといったそのスジのひとたちが「えっ、マジでいいの!?」と歓喜してしまうようなミュージシャンの作品でもちらほらと採用されています。

この購入側がお金を多めに支払ったり支払わなかったりできるNYP的値段設定は、Bandcampの大きな特徴です。そしてこの特徴は、購入者の意識を“購入”から“サポート”へと変えていくひとつの大きな要因だと思われます。

通常の購入とNYPにおける意識の差

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例えば、9ドルで売っているものに9ドルを支払うのは間違いなく購入です。ある商品に対して対価を支払い、お金と引き換えに受け取る。日常生活でもよく行われる売買です。

一方、0ドルで手に入るものにわざわざ9ドル支払うのは、購入とは毛色が違うことがわかるでしょう。Bandcampでは通常ダウンロードをする直前にお金を払いますが、前述した通りNYPの場合それは任意です。払わなくてもダウンロードできますし、ダウンロードして聴いたあとに改めて払うことができます。つまりお金と商品は単純な一対一交換ではないということです。そのため、NYPにおける金銭支払いの一般的な感覚は購入というよりも募金、あるいはサポートに近いのではないかと思います。

これはNYPではない、“〇〇円以上”という価格設定でも同様です。通常の感覚での売買が成立しているうえに、さらに支払えるという点で、NYP以上にサポートの意味合いが強くなっています。

Bandcampで売られている作品のほとんどは購入者が通常より多くお金を支払える値段設定になっています。つまりBandcampはそうした点でAmazonやiTunesでのダウンロード購入、あるいはもしかしたら現物の購入よりもサポート感が強いと言えます。

購入感の薄いデジタルダウンロード

さらに重要なのは、Bandcampはデジタルダウンロードが主だということです。私たちが9ドル支払ってCDやレコードを手にしたときには、 “何かモノを買った”という満足感が確実に生まれます。そして音楽好きには、現物を得たことによる購入欲の充填を重要視している人は多いです。彼らは消費による高揚を“音楽の重み”、“音楽の楽しさ”の一部と感じているのです。

デジタルダウンロードの場合、こうした消費による高揚感が明らかに薄いです。何せモノがない。現物と比べると、触感―、あるいは嗅覚という重要な感覚がないわけです。その他金銭の支払いや外出といった、様々なモノ的事象が取っ払われているので、“モノを得た”という満足感は低いでしょう。その味気なさがデジタルダウンロードを一部のひとたちが受け入れない理由でもあります。

そして、この満足感の低さは、そのまま購入感の低下に繋がります。となると、その場合モノを買わずに一体何にお金を払っていることになるのか。もちろん音源を買っているわけですが、ここでそれとは別の意味が持ちあがってくるのです。それは、そう、ミュージシャンたちの働きに対しての対価という意味です。音源への支払いは、「あなたたちの活動を支持します」という意味が強い、とてもサポート的な支払いになるのです。もちろん従来の音源購入もサポートとしての意味合いはありましたが、デジタル化によってモノ入手から来る購入感が薄れたことで、相対的にサポート感が強まったのです。

ファンアカウント

さらに付け加えれば、私は使っていませんが、最近導入されたファンアカウント機能――誰がその作品にお金を払ったか、あるいはその人がどの作品にお金を払ったのかが公開される機能は、ファンたちの支払いに対して名誉を提供することによって、彼らのサポートを煽っています。作品の横に並ぶファンアイコンは完全にスペシャルサンクスクレジットです。作品にお金を支払うことで、後追いでその作品へと関わることができるのです。

ミュージシャンへの親しみ

さらについでにもうひとつ。BandcampでNYP作品をあさっていると、ちょくちょく「これ普通に9ドルくらいで売っていいだろ……」というような気持ちになる高レベルのアマチュア作品に出会います。またあるいは、いかにもお金持ってなさそうな幸の薄いオッサンが独りで作ったみじめな作品に出会います。そういうときには、普段即0入力ダウンロードの守銭奴である私も「ちょっとくらい払ってあげようかな……」と(収録時間×0.1)ドルとかいうような勝手な式をその都度作成して、ついでに「Amazing album!」とかいう英作文能力ゼロの一言コメントを添えて送金したりするわけです。そうすると、やっぱり払われたほうは多少なりとも喜ぶようで、「Thanks :)」みたいな最低限の謝礼を表す返信が来たり、あるいは結構テンションの高い「ぜひツアーに来てくれよな!」とかいう「いやオーストラリアとかそれは無理」なメールや、「レーベルやってるならフィジカルで出してくれよ!」とかいう「いや個人で勝手に名乗ってるだけだから無理」なメールがちょいちょい来たりします。

こうしたやり取りをしているとき、私とそのミュージシャンはその作品を通して、かなり身近なレベルで1対1で向かい合っています。そして、そうやって個人レベルで親しくなるということは、間違いなくサポート欲求へと繋がります。

このような、いちリスナーがミュージシャンと親しくなる事例は、もちろんBandcamp以前にもありました。ブラックメタルの末端などをあさっていると、どうしてもバンドやレーベルに直接メールを送って個人輸入に手を出さないと手に入らない作品がでてきます。その際に行われるやり取りで、バンドのメンバーと個人的な雑談をしたりする経験があるひとはこの界隈では少なくないでしょう。そしてBandcampであれば、そのような特別な購入方法をせずとも、通常の購入の範囲内でそうしたやり取りが行われる可能性が高くなるということです。

音楽に“参加”するリスナーたち

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以上、Bandcampの(1)NYP的値段設定、(2)デジタルダウンロード、そして(3)ファンアカウントという三つの大きな特徴は、利用者の意識を着々と“購入”から“サポート”へと変えていくでしょう。そしてそれは、いままで音楽を“消費”していたリスナーを、音楽に“参加”するリスナーへと近づけていくということでもあります。

おそらくこうした「音楽に参加する」という意識は、これまでは主にライブで養われていたんじゃないでしょうか。アリーナクラスはさておき、大きくない会場でのライブでは出演者と観客の物理的距離が近く、それは心理的距離の近さにも繋がります。実際、ライブ後にその辺をうろついている出演者に観客側が声をかけて仲良くなったという話も良く聞きます。ミュージシャンに対して覚える個人的な親しさがその人へのサポート感情へと繋がってもおかしくはないでしょう。また、ライブに対して“参加する”、“参戦する”という表現がされていたり、ライブ中の観客の行為に関する議論が白熱したりするのを見ていると、ライブというのは出演者側と観客側の両方あわせて全員で作り上げていくものだ、という意識がライブによくいく音楽好きにあるように思えます。

Bandcampは、ライブ会場で作り上げられてきたようなそうした作り手と聴き手の一体感を、自宅でも広範囲で作り上げる可能性があると言えるのではないでしょうか。

私たちリスナーにおけるDIY精神

私はここでデジタル対アナログ論争に加わって一面的なデジタル賛美をしたいわけではありません。その両方がそれそれに音楽界の発展に貢献していくでしょう。また、「参加者の方が消費者よりエライ」というようなことを言って他人を卑下して自らの音楽的立ち位置を上げたいわけでもありません。音楽に対して、消費でも参加でも好きなほうを好きにやればいいのです。

ただ私が何か伝えたかったとすれば、冒頭にあったような、パンク精神やDIY精神に関しての我々リスナーの意識や行動を考える機会でしょう。

雰囲気でDIYと言ってみましたが、そもそもDIYとはなんなんでしょうか。私は青春時代をモノ強化型ジャンルであるヴィジュアル系に費やしたので、全くその辺は詳しくありません。代わりに3LAのミズタニ氏のブログから引用をしましょう。

DIYは安売りのことではない。パンクも仲間内で回すだけで終わる音楽ではない。自分達のやっていることの価値をきちんと評価しているミュージシャンは決して安売りなどしない。メタリカの『Ride The Lightning』のように自分達の音楽の力で新規市場を開拓し、そこで自分達の音楽を売り金を得て、そして自分達が生活していく。この精神がパンクのDIYなんじゃなかろうか。

カネやケイザイへの反発がDIYの出発点だったのかもしれません。ただ、それはお金や経済を反射的に嫌うことではない。私たちが汗水たらして稼いだお金で、彼らへの対価をきちんと支払うこと、彼らと一緒に別の立場から市場形成に関わること。それが私たちリスナーにできるDIY精神なのかな、と思いました。

そしてそれはもちろん、ボッタクリだと思えばお金を支払わなくて良いということでもあります。そういう意味で消費も参加もやってることは変わりません。ただ、上述したようなDIY的な意識の―――自分のお金が自分の好きなものを作るんだ、という意識の有無は、お金を払うということに対する姿勢を、そして音楽に対する姿勢を変えていくんじゃないでしょうか。それが一概に良いこととは言えないかもしれません。ただそれでも、そうした人たちが、メジャーシーンで大成功をおさめたメタリカのように、音楽をある方向から盛り上げるのだと、私は信じています。そしてそれは、現物でもダウンロードでも、あるいはこれから主流になっていくだろうストリーミングでも、変わらないんじゃないでしょうか。

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「音楽はストーリー以下」でもいいんじゃないの?~サムラゴーチ的問題に添えて

「音楽はストーリー以下」を嘆く人たち

もはや説明不要の佐村河内氏のゴースト作曲の件だが、発覚当時以下のような発言をツイッターで見かけた(無断引用うんぬんという本論とずれた批判を受けないためにリンクは外してある)

もし佐村河内氏の作曲問題で、いままで曲をすばらしいといってた人が、曲の評価も下げたり見向きもしなくなったとしたら、それがだまされたという気分に基づくとはいえ、人々はストーリーを聞いていたにすぎず、音楽を聴いていないってことを証明することになりますね。音楽はストーリー以下だと。

その通り。何度でも言う。音楽は音楽だけを聴くものではない。それは否定的な意味でも、肯定的な意味でもない。そうあらざるを得ないという事実だ。純粋な“音楽”に対しては、作曲者や、聴いている我々自身でさえも不純物であって、それが介在する時点でもはや音楽とそれ以外の付随物(ここではストーリー)の関係を切ることはできない。

この件についてはこの記事で取り扱っているし、また改めて記事を書きたいと思ってはいるが、とはいえその話をここでするつもりはない。私が気になったのは「音楽はストーリー以下」という表現である。

冒頭の発言は、作品のなかに音楽とストーリーという要素を見出している。そして発言者のその他の発言をあわせると、どうやら「ストーリーの有無で評価が著しく上下するのはおかしい」という意味のようた。つまり「音楽はストーリー以下」という事態は嘆くべきものだとしている。本発言以外にも、騒動が起きた当時に同様の発言をいくつか見た。あくまでストーリーは音楽にとっての副産物であって、音楽を音楽として楽しむことが本来の姿だ、というような主張だ。

現代音楽に見る音楽とストーリー

ジョンケージ

それでは、この「音楽はストーリー以下」という発言に関して少し考えていこう。

作品における音楽という要素とはなんだろうか。それはまさに音そのもので、楽器やスピーカーから出るその集合だったり、音源に記録されているデータだったりする。あるいはもう少し広く、アートワークや歌詞も含めていいかもしれない。

ストーリーはどうだろうか。今回の例では誰が作ったか、その人がどういう人か、ということがストーリーと言われている。それにならえば、まず関係者が誰であるか、ということは全てストーリーになる。そして、音楽が世に出るまでの、または世に出たあとの情報、すなわちいつ出たか、どういう経緯で作られたかという情報もまたストーリーになるだろう。

さて、ここである音楽ジャンルに焦点を当ててみよう。現代音楽である。現代音楽について、青山学院大学の広瀬准教授は下記のように語っている。(*1)

(……)「現代音楽」というジャンルで総称される音楽は、19世紀的な音楽語法に対する過激なまでの挑戦、という側面を持っている。(……)その成立過程からして基本的に聴き手を排除する構造を内に併せ持っている。

つまりわれわれが暮らす現代に近くなればなるほど、それが作曲された音楽のバックグラウンドに関する情報は多くなる。作曲家自身が豊富に遺した言葉が、金科玉条のように演奏家・聴き手を縛ることもあるだろう。

現代音楽は排他的で“非音楽的”であるが故に、聴いたり解釈したりするにあたって作品の思想的な背景が重要になってくる。聴き手はその背景を、作者がどういう音楽的推移からこの作品を作ったのか、作品に対してどういう言葉をつづり想いを語ったかを考えながら紡ぎだしていく。そう、すなわちそれはストーリーによって成される。

現代音楽のひとつの極点が、広瀬氏も例に挙げているジョン・ケージの《4分33秒》だ。この曲は4分33秒何も演奏しないことによって成立する。ストーリーに全く留意しなければ「ただの無音」であり、「無音を曲だと言い張った前衛もどき」である。しかし当然、この曲はそのような単純で軽率な曲ではない。この作品は「世にある凡ゆる音をそのまま音楽であらしめてしまった」(*2)のだ。是非は別として、それがいかに音楽史上意味のあることだったかに思いをめぐらせてほしい。

このように現代音楽においては「音楽はストーリー以下」がたびたび成立する。というよりも、ストーリーを含めて初めてその作品の魅力がわかる。語弊を承知で言えば、ある種の現代音楽においては、その思想が現れてさえいれば曲はどのような形でもいい。

それではこうした現代音楽家たちの作品を、音楽をストーリー以上のものにするために、そのストーリーを軽視して聴くことにどれだけの意味があるのだろうか。なるほど、確かにそれは作品を理解するひとつの過程としてはおもしろい試みではあるだろう。しかし、それに終始するとなれば、それは製作者の意図を尊重していないという点で、音楽――そしてそれは全く中身がない――を重視してはいるが作品を軽視しているということになる。

ストーリーの欠如により停滞する音楽

赤信号

もしそのような行いはしない、と現代音楽的在り方を肯定するのであれば、音楽におけるストーリーの重要性を肯定することになる。したがって、冒頭の発言は成り立たない。「音楽はストーリー以下」でも何ら構わないし、作品の評価がストーリーの有無で変わるのは当然となる。それでは、あくまで音楽は音楽で受け取らなければならず、ストーリー的思想を受け取るのは邪道だという考えを押し通し、現代音楽をそうした観点から聴くことも断罪するとしたらどうだろうか。

それはすなわち、停滞を意味する。

現代音楽家たちは音楽を厳格に追求し、高めようとしている。そして現代音楽は、エンターテイメント音楽としては決して優れてはいない。それをわざわざ聴くということは、その挑戦的な姿勢を聴き手の立場から肯定し、同様にその課題に対面するということである(あるいは、単純に変態か、ただのバカか、いけすかないスノッブである)。そのような在り方を否定するということは、音楽の進歩を聴き手側から遮断する行為である。それは現代音楽家たちと同時に、現代音楽家的な姿勢でもって商業音楽のなかで新たな道を切り開こうとしている人々への理解を拒否することでもある。

この件については大里俊晴氏が以下のように述べている。(*3)

すなわち、レコードの音響を、音楽についてのメタ情報(歴史的・社会的文脈における意味)と切り離し、等し並みに多種多様な音響の詰まったオブジェと見なすやり方。(中略)この文脈無視が意図的戦略のもとにおこなわれるのでないのなら、口に出すのもおぞましいが、それはただちにポスト・モダンを最悪の形態に堕してしまうことになる。すなわち、ポスト・モダンを歴史に無知であることの免罪符とする態度である。

もちろん、自分や誰かがポスト・モダンをどうしようが、一般リスナーにとって大した問題ではないだろうし、私はそうした聴き方が悪いとも全く思わない。ただ私が言いたいのは、なぜサムラゴーチ的在り方を否定するほど音楽に真摯なひとたちが、そうした非進歩的で快楽的な考え方を受け入れてしまうのだろうか、という疑問である

もう一度言う。私は何も、ストーリー要素が強い音楽を否定することが間違っていると言いたいわけではない。音楽は音楽で楽しむもので、そうしたストーリーをいちいち考えるようなものではないし、それに振り回されるようなものでもない。その通りだ。私も普段深く考えて音楽に接してはいない。それに、音楽の楽しみ方など強制されるものでもない。だが、そうした音楽原理主義的な姿勢は、その快楽の求め方から、実にサムラゴチックだと思うのだ。音楽を音楽のまま受け取り、作者の意図も含めた音楽以外の要素を軽視して、ただ音楽から即物的な快楽を得る。そのやり方は、全聾というわかりやすい記号をそのまま受け取り感動する彼らと、実に似ていると思うのだ。

冒頭の発言に対して私が感じた引っかかりは、そういうサムラゴチックな論理的無頓着さに由来している

音楽とストーリーの質の差

SAMURAGOUCHI

それでは、現代音楽作品のコンセプトを思いながら作品に接することと、全聾音楽家という謳い文句につられて作品を聴くことは、我々にとって同じことなのだろうか。もちろん、違う。上で私が述べたのは、音楽とストーリーという二分法でもってそのどちらかが優れている、という考え方は成り立たない、ということである。その音楽自体、ストーリー自体の質の差は、確実に存在する

何度も繰り返すが、基本的に現代音楽は進歩の音楽である。だからこそ人々に受け入れられ難く、それを聴き手がわざわざ選ぶというのは、音楽に対するその思想に共感するからだ。一方で、全聾で被爆2世である日本のベートーベンが作ったHIROSHIMAという曲。その生い立ちや身体による苦悩を、おそらく平和的メッセージに繋げているだろう曲は、むしろ一般に広く受け入れられるような内容になって当然である。そして、基盤となる普遍さにドーピングじみたわかりやすい経歴が乗っかってきたら、その手のことが好きなひとが食いつくのもまた当然だろう。苦境を乗り越えて平和を謳うその人に、彼らは感動する。それは同じ思想でも、音楽とは別のところにある思想である。

いや、私はここで、進歩的なのがえらいとか、大衆は愚かとか、そういうことを言いたいのではない。ただこうした音楽とストーリーに質の差が確実にあるということだ。

冒頭の「音楽はストーリー以下」というのは、そう、こうした差を指しているとも取れる。上の例で言えば、前者は音楽史的ストーリーを持っているが、後者はそうではない。そういう意味で、前者を“音楽”、後者を“ストーリー”と言えないことはない。そうして改めて見ると、なるほど、それは嘆かれても仕方がないのだろうなと思う。

ジャンクフードと日本料理

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繰り返しになるが、ゴースト発覚前の佐村河内氏の作品は、全聾で被爆2世という非常にわかりやすく24時間テレビ的な、言ってしまえば偽善めいたストーリーがついてまわっている。言うなれば感動のためのドーピング音楽だ。それは化学調味料をガンガンに使ったジャンクフードのようなものである。毎日毎日ジャンクフードを食べている人を見たら、いやいや身体壊すしたまにはもっとイイもの食べたらどう、と思うだろうし、食ってるほうは食ってるほうでそんなことを言われたらウルせーうめーんだからいいだろ、と感じるだろう。あるいは、聞いたこともないような食材を、謎のダシで薄く味付けした、それでいて素材の味を活かした小粋な料理に毎日舌鼓を打っている人を見たら、たまにはハンバーガーとか食べたくならないの、と言う気持ちになるだろうし、それに対してそう言われた方はいやあんなもん食べ物じゃないでしょ、と答えるだろう。今回一部の音楽好きの人々が見せている嘆きも、それに対する反発も、そういう類のものである

もう一度言う。どちらがえらいというわけではない。そこに質や志向の差はあっても優劣は成立しない。ジャンクフードと日本料理を「どちらが優れているか」と比較することの無意味さを思えば当然だ。もちろん、食全体を考えるために両者を比較するのは有用であるし、また、そこに優劣をつけることで優越感に浸ったり、あるいは逆に嘆きの淵でカタルシスを得たりするのが好きなひとたちがいるのは承知してはいる。けれども私が言いたいのは、作品においてストーリーは音楽以下ではないし、音楽もまたストーリー以下ではないこと。その両方が両方で音楽作品の魅力であり、積極的に楽しんでいけば結構おもしろいんだぜ、ということである。

最後に

ちなみにある知り合いは、件のニュースを見た直後に「こりゃあまた売れるな、これ含めて商売だな」と言っていた。実際にまた氏の作品は売れているようである。鋭い。そして、見事な炎上商法である。炎上もまたストーリー。この物語、もうちょっと楽しんでいこうと思う。私も先日の「3年前くらいから少しずつ耳が聴こえるようになった」はおおいに笑わせてもらった。もちろんそれはとても下衆な笑いである。もはや音楽とは全く関係のない、とても下衆な。

……。

勘のいい方はお気づきの通り、本稿は「サムラゴチック」と言いたかっただけである。本言葉の起源は私ではない。Twitterでこの言葉を発した某氏に感謝の意を示し、本稿を終わらせていただく。ああなんてサムラゴチック。

  1. *1 専門書にチャレンジ! 第16回 ”現代音楽”を分析する両極のアプローチ
  2. *2 大里俊晴『マイナー音楽のために―大里俊晴著作集
    (月曜社、2010年発行)- 56ページ
  3. *3 同上 – 152ページ