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ORANSSI PAZUZU『Valonielu』:新旧二つの“トランス音楽”の利用

踊りと音楽

ダンサブル。この言葉でエレクトロミュージックを思い浮かべる人は少なくないだろう。電子音楽の普及とクラブシーンへの浸透はそれほど古い出来事ではなく、また、クラブで流れているのが必ずしも電子音楽ではないにしろ、ダンサブル=エレクトロミュージックという印象は突飛なものではない。エレクトロダンスミュージックの代表的な要素が重低音での四つ打ちを中心としたリズムだ。人々はハッキリとした、かつわかりやすいリズムにのって踊り続ける。

そう、ダンサブルというのは“踊れる”という意味だが、人類にとって踊りと音楽というのは特別な意味を持っていた。自然現象が神の仕業だった時代、人々は神と通じてその怒り=自然災害を治めようと試みた。そのために使われたのが踊りと音楽だ。巫女やシャーマンと呼ばれる人々は音楽に合わせて踊り、トランス状態、すなわち非日常的な精神状態に自らを導いた。その非日常性が神性であり、彼らは音楽と踊りによって神と通じたのである。

ここでもう一度エレクトロミュージックに戻ってみよう。 果たしてクラブで音楽に合わせて踊る人々は神を意識しているだろうか。もちろんそんなことはない。反復するリズム下で訪れる彼らのトランス状態は単純な快楽に繋がっているのみだ。そういう意味でエレクトロダンスミュージックは即効性が重視される。

二つの“トランス音楽”

二つの“トランス音楽”には共通点は多い。最も大きな特徴は反復だろう。あとは展開が少ない、ミニマルなところも似ている。無論プログレッシブトランスなどの、ミニマルでないエレクトロダンスミュージックもあるにはあるが、基本的にリズム音楽という性質上、リズムパターンによる変化が付けにくく展開としては薄くなりがちだ。これらの特徴は、トランス音楽が踊りと強い関係を持っていることを考えると当然と言える。

しかし前述のようにその目的は二つのトランス音楽によって異なる。すなわち古来には神秘性が必要であり、現代は快楽性が必要だ。神と通じるためには特別な人間が、特別な段階を経る必要があった。神との対話は簡単な作業ではない。したがって古来のトランス音楽は段階的であり、冗長である。一方で現代のトランス音楽は快楽に直結する音作りが要だ。重低音によってリズムの強度を高め、シンセサイザーによって勢いとうねりを付加する。特別でなくていい。ただ、即効的でありさえすれば。

もちろん、そうした性質に反発するように、IDMなどの“音楽的に”優れたエレクトロダンスミュージックも登場する。

バンドとトランス音楽

ではバンドの場合はどうだろうか。

なるほど、エレクトロダンスミュージックの特徴は、バンド音楽にも盛んに取り込まれている。例えば最近の日本のロックであれば、サカナクションの成功がその効果を示しているだろう。単純でかつ力強い四つ打ちリズムはバンド演奏にわかりやすさと強度、そしてスタイリッシュさを与える。バンド音楽にエレクトロミュージックが取り込まれる場合、そこに大衆性と洗練性が付随することは少なくない。

一方でシャーマントランス音楽の場合は、むしろその逆だ。民族的なリズムや旋律はアクの強さと土臭さを付加する。

さらにその両方を合わせたような人力トランスというジャンルも存在する。バンド演奏とエレクトロミュージックの組み合わせでありながら、ミニマルで長尺で、かつバンドの躍動感を持つ、どちらかというとシャーマニズムの手触りのある音楽性が多い。ROVOなどがその好例だろう。

ORANSSI PAZUZU

前置きが長くなったが、今回紹介したいはORANSSI PAZUZU『Valonielu』収録の#1「Vino Verso」だ。この曲はドゥーム/ストーナーあたりを基本骨格として、頭から尻まで同じフレーズを徹底してひたすら反復している。そういう意味では人力トランスに近い手触りだ。ところが1分半を超えたところで、絶叫ボーカルと入れ替わりに突如シンセサイザーが浮上してくる。その、ユーロビートをビートマニア的に直球で解釈したような「テケテーテケテーテケテーテケテー」というフレーズの効果は、その単純さ以上に高い。

まずこの手の音楽にまるで似つかわしくないという意外性。FLESHGOD APOCALYPSEのシンフォニックとテクニカルデスメタルの組み合わせがそうであったように、強い“驚き”は元々の曲の受け入れ難さを大幅に減衰させる。

そして、シンセサイザーはさらに、我々に容易に“ダンサブル”を想起させる。極限まで単純化されたフレーズはもはや“踊れる”という記号である。前述したように、現代の“踊れる”は即効的な快楽に繋がる。したがって、本曲にもそうした意味が加えられる。

こうして件のエレクトロフレーズによって、ミニマルドゥームというどうしようもない音楽に、快楽性と普遍性が付加される。シャーマン的な神秘性と、クラブ的な即効性が合わさった、二重の意味でトランシーな曲ができあがる。

当該ドゥームとシンセはあまり相性の良い音ではないが、反復という共通点を起点にして馴染ませている。

アルバム1曲目としてのこの曲の効果も高い。この曲以後はそれほどシンセサイザーは活躍せず、とはいえ出来の良いスペースドゥームといった感じだが、この一曲の余韻で聴き手の反復とミニマルさに対する感受性は高まっているため、通常単曲で聴いたとき以上にその宇宙的な魅力を受信できる。

しかしながらこうした「Vino Verso」の構造は、我々のクラブミュージックに対する単純化された解釈のうえに成り立っている。四つ打ちで、享楽的。そういう意味では、SKRILLEXが若くしてダブステップで成功を収めた現代だからこそ意味を持つメタル作品と言えるかもしれない。

補足

えー、ハウスもトランスもその他いろいろもダンスミュージックとしてまとめて語っていますが、読んでいただけたならわかるように、それは“あまり興味のない人から見た単純化された構図”という意味でそれらを扱っているからです。文中でも触れていますが、エレクトロミュージックは、他ジャンルとの交流も含めて非常に多様化しているのは言うまでもありません。

流体力学や材料力学は、理想的な材料モデルを使って複雑な現象を考えます。レオロジーは逆に複雑な材料を単純な物理現象で捉えます。そのままでは考えるのに煩雑なある事柄を捉えるときに、何かを単純化する、というのはよくある手法です。