ALTAR OF PLAGUES『Teethed Glory and Injury』:破滅と終焉の感情再起(Black Metal)

無機的側面と有機的側面

「Mills」――不安げなストリングスのドローン、無表情な民族的打撃音、呻く重低音。それらが混然一体となってひとつの世界を構築するこの曲。その拍動の高まりののちに開始する「God Alone」は、まるで警告音のようなギター音で幕を開ける。コードチェンジを避け、電気信号のように同じフレーズを繰りかえすギターワークは、本作の随所で見られる特徴的な表現だ。我々に非メタル的な無機質さを想起させるこの手法は、GODFLESHや初期ISISでよく聴かれた。GODFLESHはその無機質さをインダストリアルな硬質さへと結びつけ、ISISはアトモスフェリックな精神性へと結びつけていった。そういえばリフの意義をリズムと捉えたDjent勢もこの並びに入るかもしれない。

それでは彼らの場合はどうだろうか。とりあえずギター以外のパートに耳を移してみよう。まずはドラム。ブラックメタルバンドとしてのブラストビートは目立つものの、ギターとポリリズミックかつミニマルに絡むあたりはDjentのそれに近い。にもかかわらず正確さよりも揺れを優先しているのが特徴で、全体のなかでは有機的に機能している。

つぎにボーカルだが、ブラックメタル特有の喉をつぶしたダミデス声が使われている。場合によっては人間ならざるものを思わせるダミデス声だが、曲の高まりにあわせて祈りにも似た絶叫に変わるところもあり、そこには明確な人間性がある。

ここでもう一度ギターに戻ってみよう。前述のフレーズのほかに、DEATHSPELL OMEGAを思わせる音程のゆらめくギターも随所で見られる。核となる2種類のギターは無感情さと不安定さで互いに異なる方向を向いている。

さて、再度ひとつひとつに目を向けてみると、なるほど、全てのパートが、無機的な、非人間的な冷徹さを基本としながらも、確実に有機的な、人間的な豊かさを持っている。これは果たしてどういう意味を持っているのだろうか。

それはアルバムを通して聴くと見えてくる。

“感情”の再起

「Mills」――一見別々に思われるその要素は、作品の冒頭で粉々にかき混ぜられている。その結果生成したコレは、果たして何者でもない“混ぜ物”であったのか。「A Body Shrouded」―モノクロに覆われひたすらに暗澹として無表情だったソレは、「Burnt Year」――燃え盛る時代によって非業の絶叫を上げ、「A Remedy And A Fever」――救済と熱を求めて祈りのコーラスを唱える。「Tweleve Was Ruin」でそれまで沈黙を保っていたメロディが浮かび上がり、最後の「Reflection Pulse Remains」ではポストメタルにも通じる叙情性を見せる。

そう、本作は後半に向けて音の“感情”が豊かになっていく構成になっている。感情に関してひとつの連続した意思がそこにある。つまり前述の無機と有機は、独立して存在しているわけではないし、別々の働きをしているわけでもない。ひとつの音のなかの無機的要素と有機的要素、どちらが強いかということだ。作品が進むごとに段階的に取り戻される無表情のなかの精神性は、作品全体としてのクレッシェンドとなって働く。到達点である「Reflection Pulse Remains」のトレモロに含まれる非業は、「God Alone」の無慈悲な強度を持って我々の心に侵入する。

このようなアルバム全体で長期的な盛り上がりを見せる作品はどうしても冗長になってしまい、そのスジの人以外はダレてしまいがちだ。しかし本作は、こうした49分の流れが各曲でもある程度コンパクトに示唆されている点で優れている。示唆、という点が見事だ。それぞれの曲で浮かび上がる有機的要素は同じものではなく、またそれによって意味の強さも変わる。徐々に有機的強度の高い要素を採用し段々感情を豊かにしていく曲は、それ自体がそれぞれ異なる意味での有機的な盛り上がりを見せながらも、全体として「段階的に有機的になっていく」という印象を少しずつ強めていく。

終焉のパルス

「“感情”が豊かになっていく」、「有機的になっていく」というと何やら前向きな印象も受けるが、実際は真逆で、これは破滅の物語だ。くだらない日々の繰り返しを無表情でやり過ごす我々が、何らかの間違いで鬱屈したその精神を取り戻しその身を蝕んでいく。最後に途切れるパルスは、自らの鼓動の停止。それは精神の死か、それとも肉体の死か。いつ何時自らが精神を病み、その身を終えるか、誰も知るすべがないことに思いを馳せよ。

ALTAR OF PLAGUES。厄災の祭壇から孤高の神がもたらす最初で最後の警鐘。本作は、2013年に、いや、ブラックメタル史にその名を残す作品だと確信している。

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ORANSSI PAZUZU『Valonielu』:新旧二つの“トランス音楽”の利用

踊りと音楽

ダンサブル。この言葉でエレクトロミュージックを思い浮かべる人は少なくないだろう。電子音楽の普及とクラブシーンへの浸透はそれほど古い出来事ではなく、また、クラブで流れているのが必ずしも電子音楽ではないにしろ、ダンサブル=エレクトロミュージックという印象は突飛なものではない。エレクトロダンスミュージックの代表的な要素が重低音での四つ打ちを中心としたリズムだ。人々はハッキリとした、かつわかりやすいリズムにのって踊り続ける。

そう、ダンサブルというのは“踊れる”という意味だが、人類にとって踊りと音楽というのは特別な意味を持っていた。自然現象が神の仕業だった時代、人々は神と通じてその怒り=自然災害を治めようと試みた。そのために使われたのが踊りと音楽だ。巫女やシャーマンと呼ばれる人々は音楽に合わせて踊り、トランス状態、すなわち非日常的な精神状態に自らを導いた。その非日常性が神性であり、彼らは音楽と踊りによって神と通じたのである。

ここでもう一度エレクトロミュージックに戻ってみよう。 果たしてクラブで音楽に合わせて踊る人々は神を意識しているだろうか。もちろんそんなことはない。反復するリズム下で訪れる彼らのトランス状態は単純な快楽に繋がっているのみだ。そういう意味でエレクトロダンスミュージックは即効性が重視される。

二つの“トランス音楽”

二つの“トランス音楽”には共通点は多い。最も大きな特徴は反復だろう。あとは展開が少ない、ミニマルなところも似ている。無論プログレッシブトランスなどの、ミニマルでないエレクトロダンスミュージックもあるにはあるが、基本的にリズム音楽という性質上、リズムパターンによる変化が付けにくく展開としては薄くなりがちだ。これらの特徴は、トランス音楽が踊りと強い関係を持っていることを考えると当然と言える。

しかし前述のようにその目的は二つのトランス音楽によって異なる。すなわち古来には神秘性が必要であり、現代は快楽性が必要だ。神と通じるためには特別な人間が、特別な段階を経る必要があった。神との対話は簡単な作業ではない。したがって古来のトランス音楽は段階的であり、冗長である。一方で現代のトランス音楽は快楽に直結する音作りが要だ。重低音によってリズムの強度を高め、シンセサイザーによって勢いとうねりを付加する。特別でなくていい。ただ、即効的でありさえすれば。

もちろん、そうした性質に反発するように、IDMなどの“音楽的に”優れたエレクトロダンスミュージックも登場する。

バンドとトランス音楽

ではバンドの場合はどうだろうか。

なるほど、エレクトロダンスミュージックの特徴は、バンド音楽にも盛んに取り込まれている。例えば最近の日本のロックであれば、サカナクションの成功がその効果を示しているだろう。単純でかつ力強い四つ打ちリズムはバンド演奏にわかりやすさと強度、そしてスタイリッシュさを与える。バンド音楽にエレクトロミュージックが取り込まれる場合、そこに大衆性と洗練性が付随することは少なくない。

一方でシャーマントランス音楽の場合は、むしろその逆だ。民族的なリズムや旋律はアクの強さと土臭さを付加する。

さらにその両方を合わせたような人力トランスというジャンルも存在する。バンド演奏とエレクトロミュージックの組み合わせでありながら、ミニマルで長尺で、かつバンドの躍動感を持つ、どちらかというとシャーマニズムの手触りのある音楽性が多い。ROVOなどがその好例だろう。

ORANSSI PAZUZU

前置きが長くなったが、今回紹介したいはORANSSI PAZUZU『Valonielu』収録の#1「Vino Verso」だ。この曲はドゥーム/ストーナーあたりを基本骨格として、頭から尻まで同じフレーズを徹底してひたすら反復している。そういう意味では人力トランスに近い手触りだ。ところが1分半を超えたところで、絶叫ボーカルと入れ替わりに突如シンセサイザーが浮上してくる。その、ユーロビートをビートマニア的に直球で解釈したような「テケテーテケテーテケテーテケテー」というフレーズの効果は、その単純さ以上に高い。

まずこの手の音楽にまるで似つかわしくないという意外性。FLESHGOD APOCALYPSEのシンフォニックとテクニカルデスメタルの組み合わせがそうであったように、強い“驚き”は元々の曲の受け入れ難さを大幅に減衰させる。

そして、シンセサイザーはさらに、我々に容易に“ダンサブル”を想起させる。極限まで単純化されたフレーズはもはや“踊れる”という記号である。前述したように、現代の“踊れる”は即効的な快楽に繋がる。したがって、本曲にもそうした意味が加えられる。

こうして件のエレクトロフレーズによって、ミニマルドゥームというどうしようもない音楽に、快楽性と普遍性が付加される。シャーマン的な神秘性と、クラブ的な即効性が合わさった、二重の意味でトランシーな曲ができあがる。

当該ドゥームとシンセはあまり相性の良い音ではないが、反復という共通点を起点にして馴染ませている。

アルバム1曲目としてのこの曲の効果も高い。この曲以後はそれほどシンセサイザーは活躍せず、とはいえ出来の良いスペースドゥームといった感じだが、この一曲の余韻で聴き手の反復とミニマルさに対する感受性は高まっているため、通常単曲で聴いたとき以上にその宇宙的な魅力を受信できる。

しかしながらこうした「Vino Verso」の構造は、我々のクラブミュージックに対する単純化された解釈のうえに成り立っている。四つ打ちで、享楽的。そういう意味では、SKRILLEXが若くしてダブステップで成功を収めた現代だからこそ意味を持つメタル作品と言えるかもしれない。

補足

えー、ハウスもトランスもその他いろいろもダンスミュージックとしてまとめて語っていますが、読んでいただけたならわかるように、それは“あまり興味のない人から見た単純化された構図”という意味でそれらを扱っているからです。文中でも触れていますが、エレクトロミュージックは、他ジャンルとの交流も含めて非常に多様化しているのは言うまでもありません。

流体力学や材料力学は、理想的な材料モデルを使って複雑な現象を考えます。レオロジーは逆に複雑な材料を単純な物理現象で捉えます。そのままでは考えるのに煩雑なある事柄を捉えるときに、何かを単純化する、というのはよくある手法です。

あなたが音楽ブログで年間ベスト記事を書くべき3つの理由

クソみたいな記事名でクリックを戸惑ったみなさんこんにちは@Rhangylusです(蔓延しきった手垢手法を皮肉る手法)

毎年この時期になると、大手零細問わず皆右にならえで年間ベスト記事を選出します。わかる。ヒジョーによくわかる。なぜなら年間記事っていうのは書き手や読み手にとってメリットがたくさんあるからです。というわけでそれぞれの視点でそのメリットを考えてみました。

書き手のメリット

単位作品あたりの文字数が少なくて良い

音楽作品を紹介するなり批評するなりする際、それを記事として成り立たせるにはある程度の文章量が必要とされる。文章量を稼ぐにはいくつか方法があって、例えば出身地などのアーティスト情報を書いたり、その作品の歴史的位置付けに言及したり、作品を聴いた印象を記したりだ。通常は以上それぞれの内容をそれなりの文章量にし、ひとつの記事として仕上げる。

ところがベスト記事の場合、こうした作業を行わずとも記事としての体裁を保てる。単位作品であれば文字数で成り立たせる記事の内容量を、作品数で補えるからだ。ある作品を掘り下げていくより、複数の作品の名前と少しの情報を挙げていくほうがはるかに楽である。のちに説明するが、この労力の割に年間ベスト記事の集客力は高い。自分のブログを多くのひとに見てもらいたいならば、楽にアクセスを集められる年間ベスト記事は是非活用したいところだ。

ところで、単一作品をベスト記事と変わらない程度の文章量で扱っているブログもあるが、基本的にはこうしたブログは、その目的にもよるが、TwitterやFacebookなどのSNSに移行したほうが賢明だろう。SNSのほうが広く、多く反応が得られるからだ。

アクセス数が稼げる

各種配信サービスが普及した現在、単純に作品の情報を得たいだけならばYoutubeやTwitterなどのSNSで事足りる。アーティスト名と作品名、作風に関する少しの情報と試聴先URLさえあれば十分だ。それは例えばTwitterの140字という制限内でも十分事足りるもので、かつそれ以上の情報は入れようがない程度のものだ。一方でブログだと、個人の感想や考察という、情報という意味ではノイズが含まれてしまう。さらにTwitterでは文字通り情報が“流れて”来るが、ブログではわざわざクリックして足を運ばなければならず、労力がかかる。そういう意味で、多くの作品を知る目的では、ブログは効率が悪い。

また、情報の質もTwitterとブログでは異なる。ブログでは良い作品も悪い作品も(ここでの良い悪いは品質だけでなくネタとしての意味も含む)広く紹介する場合が多いが、Twitterで流れてくるのは個人がオススメする良い作品の場合が多い。情報を集めるときに、わざわざイマイチなものに手を出す人は少ないわけで、やはり良い音楽に出会うためにはブログからの情報収集はあまり賢い選択とは言えない。

というわけで、作品情報の取得、という意味では、その量と質ともにブログはSNSに劣る

ところが、これが年間ベスト記事になると状況が変わってくる。ブログ記事内での単位作品あたりの情報量の減少とその質の向上が行われる。多くの作品を紹介するという都合上、それぞれの作品に深く言及はしなくなるため、当然作品あたりの情報量は減少する。極端な場合、アーティスト名と作品名を羅列するだけのところもある。そして年間ベストは、あるいはそれが例え年間バッドやその他ランキングだったとしても、何かしらの点で突出している作品がそこに並ぶので、情報の質も通常より向上している。さらに、Twitterでは他の情報も“流れて”来てしまうため、時間あたりの情報取得量としてはそれほど効率が良くないし、過去の情報を参照したい際にも便利とは言い難い。一方ベスト記事はたった1度足を運ぶだけで多くの情報を得られるし、ローカルに保存すればいつでも回覧可能だ。

このように、一般の記事でのSNS>ブログという情報取得ツールとしての序列が、年間ベスト記事になると一気に逆転する

ここで確認しておかなければならない重要な点がある。それは、音楽鑑賞と比べて、音楽読書(他人の音楽に対する文章を読むこと)はマイナーな趣味である、ということだ。多くの人々が求めているのは自分が良い音楽生活を送るための情報であり、他人の考察、ましてや素人の感想文などではない。その事実が、年間ベスト記事のアクセス数に顕著に繋がるのである。

自分のスタイルを演出できる

音楽は往々にして自らを着飾るアクセサリーとなる。それは自らの意思を問わない。たとえ本人がそう意識していなくても、周囲が勝手にスタイル性を読み取ってしまう。そして年間ベスト記事は、その側面が非常に強い。例えば今年のメタルであれば、DEAFHEAVENの順位。非常に聴きやすい「新しいブラックメタル」をどう評価するかでその人のメタラーとしてのスタイルが決まる。個人ブログではなく大手メディアになるが、Rolling Stone誌Stereogum誌などの非メタル専門雑誌では彼らの新作は燦然と1位なり上位に輝いている。一方でMetal専門系の雑誌ではほとんどが10位以下である。DEAFHEAVENを積極的に認めることはメタラーとして進歩的あるいはライト層であるという宣言に等しい。逆に彼らを酷評することは、メタルに対して強いこだわりを持っていることを読み手に示す。

もちろん個別記事でもこの辺りは読み手に伝わるが、年間ベストはさらにその傾向が強まる。何せ複数の作品を並べられるからだ。DEAFHEAVEN、KVELERTAKといったキャッチ―メタルの間にGORGUTSなどのガチブラックメタルを置くことで、単なるライト層ではなく進歩的な音楽を認める層ということを表明できる。あるいは読み手が全く知らないようなマイナー作品ばかりを並べることで、自らの感受性の独特さと深さを知らしめることもできる。

また、前述の通り年間ベスト記事は内容を作品の量で補っている面がある。そういう意味で、自分の音楽的センスをその質ではなく単純な量で演出できるという点でもアクセサリー性に優れているだろう。

こうした装飾としての音楽の利用は、着飾る側にとっても満足感を得られるが、読み手にとっても有用だ。そこのブログがどういうスタイルなのか、自分のスタイルとどう差があるのか、ということはそのブログの情報どう扱うかに関しての重要な情報になる。

以上のように、年間ベスト記事は書き手にとってのメリットが大きい。やはり年間ベスト記事は書くべきなのだ

読み手のメリット

こちらはもう書き手のメリットでほとんど説明している。ベスト記事は、単純に情報を取得するのに便利で効率が良い。極端な話、1年に2度、上半期と下半期にそれぞれのメディアのベスト情報をチェックしておけば、あとは読まなくても事足りる。

それでも私が書かない理由

楽しくないんだもの。

メリット一つ目の「単位記事あたりの文字数が少なくて良い」という部分は私にとって大したメリットではないんですよ。私の音楽批評の第一義は、その作品を読み解くことと、その読解方法を読者に伝えることなんですね。その作業をまえに、文字数うんぬんはまるで関係がない。確かにブログを運営していくにあたって定期的な更新や読みやすい分量はアクセス数に繋がるので考慮したほうが良い点ではあります。私だって有名ブロガーになって10000PV/日とかで「まじランギラスさんやべえ。しゃぶって」と崇められたい。崇められたいですが、それよりも何よりも、前述の意義がやはり先行するんですよ。私は、人気者になるために音楽批評をしているのではない。目的と異なる作業をすることは当然楽しくない。メリット二つ目も、同様に説明できます。私のブログは情報取得ツールとして利用するような類のものではないです(読者に対してどういう影響を与えようとしているかなど、この辺りの、私が音楽批評を書くときに注意している点はそのうち書くつもりです)

そしてメリット三つ目。これはまあ、この文章を読んでいただければわかるように、この記事が「年間ベストは書かない」というスタイル表明になってますね。私の音楽的なスタイルは、それこそ個別記事を読んでもらえればわかるでしょうし、それをわかってもらうことは、本ブログの第一義ではありませんし。

誤解されたくないのは、あくまでこれは「私が書かない理由」であって、他人に対するソレではないということです。こんだけ言っといてあれですが、私は人の年間ベスト記事を読むのがすげえ好きなんですよ。有名なひとは大概読みごたえのある記事に仕上げてきますし、そうでなくても、好きな文章書くひとがどういう音楽を好むのか、どういうスタイルで音楽を聴いてるのかって、やっぱ知りたいですよ。知って、全然知らないしやっぱすげえなこの人は、とか、意外とポップなのが好きなんだな、とか、文章おもしろいけどおれとはスタイルがあわねえし感性も違うな(だから余計におもしろいな)、とかいろいろ思いめぐらしたいんですよ。だからみなさん、どんどん書いてください。

ただ、それは読者として、であって、書き手としては、やっぱり、あんまり楽しくないな、という結論です。こういう受信側と発信側の意識の齟齬っていうのは色んな分野であるんじゃないでしょうか。もちろん今回の私の場合、「楽しくない」というふわーっとした理由なので、今後書く可能性もありますのでその時はよろしくお願いします。

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A STORM OF LIGHT『Nations to Flames』:ポストメタルバンド、スラッシュにはまるの巻

何やらSLAYERとの共演で速い曲に対して意識を改めたとのこと。何を今さら……という感はあるが、ともかく本作はその影響が明らかだ。全体的なテンポアップと短曲化はもちろんのこと、何よりギターが刻む刻む。冗長雰囲気メタルの極み『And We Wept the Black Ocean Within』を作ったバンドとは思えない。

とはいえそのことがメタルバンドとしての力強さを単純に強化している点はまず評価できる。作風が変わった際の、知見不足による品質低下もない。やはりビジュアル担当とはいえ初期からNEUROSISに在籍していたJoshがいるというのは心強い。もともとこの手のバンドの中では輪郭のハッキリした音を鳴らしていた彼らなので、ミュートで刻んでもサマになっている。また、鈍重に力を注いできた経緯もあって、リフのひとつひとつが重い。スラッシー=ムチ打つような、という言葉にふさわしい音になっている。

もちろん、彼らはただのスラッシュメタルバンドになったわけではない。もともと持っていた鈍苦しい雰囲気も十分に発している。そこを担っているのはドラムとボーカルだ。

まずドラムだが、スラッシュに見られる高速ツービートは見られない。代わりに多用されているのがタム回しスネア回しだ。ドコドコと休まることがない。これはポストメタルでは一般的な技法なので、単純なメタルリフとポストメタルドラムの合わせ技なのだが、これが予想以上に相性が良い。ドラムの手数の多さがリフの刻みを補強して、実際の速度や密度以上に音が詰まって聴こえる。もともとの雰囲気を損なわないままリフの強化が行われている。場面によるドラミングの切り替えも良好。録音について聞かれた際、Joshが〈いちばん大きかったのはドラムのビリーも一緒に曲作りを始められたことですね。(中略)今まではドラマー抜きで作曲していましたから。〉と答えているだけはある働きだ。

次にボーカルだが、これは本当に特徴的。もともと地声で浪々と歌う、それこそNEUROSISに近いスタイルだったし、前作『As The Valley Of Death Becomes Us, Our Silver Memories Fade』ではかなりしっかり歌いあげていた。音楽性の変化もあって、さらに歌を重視してくるのかと思ったらそうではなかった。音程がほぼ変わらない俗にいうお経ボーカルで、歌としての機能はほぼない。そのうえエフェクトもかけていて音の定位も広い。その点に関しては歌というよりもシンセに近い鳴り方だ。ただし、歌そのものの主張はかなり強い。声と言葉の存在感を存分に発揮しうるシャウトに近い歌唱法だ。歌にならない歌。それは『Nations To Flames』という主題とカバージャケットから想起される、人々の魂の叫びを彷彿させる。バンドとしての物理的強度に精神的な強度を加えるに足りるボーカルワークだと感じる。ちなみに本人はCONVERGEとのツアーのあとに〈このバンドに必要なのは、より攻撃的で、そしてもうちょっと無調なボーカルなんだと気づきました〉と言っている。CONVERGEからこのスタイルを想像するとは、感性が鋭いというか独特というか……絶叫するだけのフォロワーに聴かせたいところだ。

スラッシュバンドがポストメタルに傾倒するのはMASTODONがやったことだが、その逆は珍しい。本作はそういう意味でも貴重な作品と言える。興味がある人はぜひ聴いてみて欲しい。

完全に余談だが、ひとつ残念なのは元HOWLのAndreaタソが不参加なこと。「a storm of light」でgoogle画像検索すると彼女のソロ写真がやたら多いことからもヘヴィ音楽界隈には貴重な麗しきギタリストであることが伺える。写真によっては女装したオッサンに見えるけど。とにかく今後もこういうステキなバンドでステキに活躍して欲しいところではあった。ちなみにリンク先に他意はない。いや、ないですって。

発言の引用元→.::SCRATCHtheSurface Webzine::.: A Storm of Light | Interview with Josh Graham

ライブへ「会いに行く」人たち考

「会いに行く」人たち

目的によって同じように見える行為の名称が変わることは珍しくはない。例えば音楽の生演奏を聴きにいくことを「参戦」と言うひとたちがいる。ハードコア界隈で良く見られる表現だが、モッシュやダイブなど、ライブでの彼らの暴れ具合を見ているとなるほど「参戦」というのもしっくりくる。それはクラシックコンサートを「観に行く」のとははっきりと異なる行為である。

とはいえ「参戦」にしろ「観に行く」にしろ、ライブという場が目的達成の条件になっている点では共通している。しかし、世の中には、必ずしもライブという場でなくても達成される目的を持ってライブに行くひとたちがいる。それが「会いに行く」人たちである。

「会いに行く」人たちの目的は、その名の通り人である。それはミュージシャンではあるが、その人たちは必ずしも「会いに行く」人たちの前で演奏を行っている必要はない。「会いに行く」人たちにとって演奏者は自分の好きな音楽を演奏しているという価値を持った「演奏者」として存在しているのであり、その演奏自体が価値ではないからだ。したがって「会いに行く」ひとたちはライブ以外の握手会などにも積極的に参加する。いやむしろ、ライブよりも親密な時間を過ごせるそうしたイベントのほうが彼らにとっては望ましいとさえ言える。

「会いに行く」人たちの演奏者に対する距離感

人が人に「会った」とするとき、そこには相互認知が必要だ。例えば街で歩いている友人を見かけたが、向こうはこちらに気づかなかった場合に「私は友人に会った」とは言わない。あくまで一方的に見かけただけだ。相手がこちらに気付いて始めて「会った」となる。あるいはもう少し遠慮がちならば、挨拶をした程度では「すれちがった」になるかもしれない。

とすると、「会いに行く」人たちはライブにおいて演奏者側が自分を認知していると思っていると考えられる。そのような思い込みが生まれる理由はいくつか考えられる。“ライブ中によく目があう(気がする)→私を意識している!”という微笑ましいものから、“この作品はまるで私の気持ちを歌っているようだ→私のことを理解してくれている→私のために歌ってくれている”というゴスロリ電波系まで様々だろう。また、客に対して「ファンのみなさん」とライブ中によく呼びかけるような、あるいは「みんなに会いたかったよー!」と煽るような演奏者に対してであれば、自らを“ファンの総体”として「会いに行く」という感覚もあるかもしれない(というか大半はこれだろう)。いずれにせよ「会いに行く」人たちは演奏者と自分の精神的距離が「会える」程度には近いと感じていることは間違いなさそうだ。

さて、こうした「会いに行く」感覚は基本的に異性に対してのものだ。一番わかりやすいのがバンギャルのヴィジュアル系バンドマンに対するそれで、SNSなどで“適当なバンドメンバーの名前+会いたい”で検索するとわらわらと引っかかる。また、ヴィジュアル系でなくても、例えば神聖かまってちゃんのの子に対するある女性の同様の発言も確認している。これらは女性が男性に対して会いに行く場合だが、その逆で男性が女性の場合もある。アイドル好きとアイドルの関係だ。現在のアイドルブームを牽引している二大グループのAKB48とももいろクローバーのキャッチフレーズが、それぞれ“会いに行けるアイドル”、“今会えるアイドル”だということを考えると、アイドルに会いたがっている男性諸氏は多いと考えられる。男女ともども会いたがって会いたがって震えている様はまるで恋する乙女であり、対象が異性に限られることとと前述の距離感のことも併せると、「会いに行く」人は恋をしていると捉えてもよいだろう。もちろん、その想いは実際には恋ではなく、自分の欲求を恋と錯覚して昇華している可能性があるが、ともかく「会いに行く」人たちは大なり小なりそのような感情を相手に抱いていると予想される。(このあたりのことは大槻ケンヂ『ボクはこんなことを考えている』に詳しい)(ノンケ女性が女性アイドルに「会いに行く」のは親戚感覚?あと自己投影とか)

「会いに行く」人たちの行動

演奏者との距離感の錯覚と恋情。そう考えるといろいろ納得するところがある。例えば「会いに行く」人たちは、特にバンド界隈で、演奏者が有名になったりすると唐突にファンを辞めたりすることがある。これはイベントの動員数増加などによって対象との実際の距離が明確になったことで錯覚が解けたからと考えられる。また、激しくモッシュが起こるような内容のライブなのに、後方や2階でにこやかに手を振っているあの人たちは“身内”としてライブに来ているのだろう。

彼ら彼女らは何しろ人が目的なので、ライブだけでなく作品に対してもそういう観点で接する。例えば筋肉少女帯の「サーチライト」(大槻ケンヂが精神的に不安定だったときの曲で、自虐的な内容の歌詞)に対して「聴いているうちに、そんなに自分を責めないで、と暗い気持ちになりました」という感想を見かけたことがある。自身の音楽体験を差し置いて作者の心配をするこの発想は、まさに「会いに行く」人のそれだろう。そういうわけで、作品をただ作品として鑑賞している人や、ライブ「参戦」のために編集音源で予習するような聴き方の人とは、同じ作品の話でも根本的なズレが生じる。そして「会いに行く」人たちは、その他の人たちからバカにされがちである。これはミュージシャンの作品を主体とする聴き方が現代日本で主流だということだろう。また、その「会いに行く」という感覚が基本的にカン違いであるというところにも起因している。

そう、彼ら彼女らの想いはよそに、実際に「会える」可能性は限りなくゼロに近い。そしてそれを逆手にとってビジネスモデルとして成立させている分野すらある。「会いに行く」人たち手にしている「会った」感覚は虚構であり、彼ら彼女らの想いが真に報われることはない。それでもしかし、一途に想い続けるのだ。なぜならそれが、恋ってゅぅものだから。。。

あとがき

ネット上で見かける「会いに行く」という表現が気になってここまで話を展開してきたが、当然「会いに行く」人たちは100%「会いに行く」わけではない。「会いに行く」と表現したからといって即ミュージシャン目当てというわけだもないだろう。ただ「会いに行く」人たちの心理を多少なりとも理解できたかな、とは思っている。

ひとつの音楽作品を語るとき、対象となるのは音だけではない。作った人やそれを聴くファンでさえも批評対象になり得る。というわけで、たまには色んな視点で作品に触れてみるのも良いのではないでしょうか。

余談

しっかしこの話題、突っ込もうとすればするほどバンギャル行動心理学とかアイドル論とか「ミュージシャンは自分自身とその作品、どちらを好いてもらうのが嬉しいか」論とかマーケティングとかなんかすげぇ色んな領域の深みに発展して収拾つかなくなりそうになったですね。全部やったら本一冊書けるわ。というわけでどなたかお願いします。