POLYPHIAに見る「テクニックだけ」という定型批判


歴史から外れたPOLYPHIAの容姿

氏の素晴らしい三段落ちツイートに表されている通り、彼らは見かけからは想像もつかないテクニック偏重のメタルをやっている。

メタルバンドがテクニックを見せつけるのはそう珍しいことではない。ギタリストとしてはYngwie Malmsteenが先駆けだろうか。その後のスーパー・ギタリスト・ブームはテクニック偏愛ギタリストを多く生み出した。ベーシストはよく知らないが、最近ではRED HOT CHILI PEPPERSなんかがバンド小僧の憧れとなっているのだろうか。ドラマーもいろいろいるが、エクストリーム界ではCRYPTOPSYのFlo Monieが有名だ。

さて、以上の名前が出た人たちを見ていただくとわかるように、テクニック系の人たちは長髪だったり坊主だったり、刺青だったりパッツパツだったり、なんというか全体的にアレな容姿である。アレ、というのは、電車で無意識に隣の席を避けてしまうような雰囲気、とでもしておこうか、とにかく一筋縄ではいかない容姿である。もちろんメタル界全体の容姿がアレなのだが、テクニック系の人たちはその中でも特にアレな印象を持たれやすい。それは、技術力の異常性が外面の印象にも影響を与えるからだ。素晴らしい演奏を見せる人たちを我々は尊敬を込めてしばしば“変態”と呼ぶが、その通り、度を超えた技術力偏愛は容易に異常性へと繋がる。その異常性とメタル界特有の飛び出た容姿を合わせて我々はこう思う。「こんなに変態じみた演奏をするからやはり見た目も変態なのだなあ」と。そうして歴史はつむがれ、テクニカルなメタラー=見た目も変態的という何となしの印象が出来上がった。

さて、POLYPHIAだ。流した前髪、低脂肪低タンパクな身体、柔和な笑顔……“変態”とは無縁な、親しげな優男たちがそこにはいる。こいつらが、いざ演奏を始めてみるとテクニカル一辺倒なのである。歴史を無視するそのあり方に、我々は驚き、笑顔で拍手することになった。

「テクニックだけ」が出てくるまで

一方で、こうした彼らの魅力を、むしろ憎々しげに眺めるものたちもいる。メタル美意識を強くもっているBURRN!と燃えるメタル戦士たちだ。高校球児に坊主と恋愛禁止を強制するかのごとく、彼らはこう思う。「チャラい格好でメタルやってんじゃねぇ」、「こんなもんメタルじゃねぇ」。彼らにとってメタルは音楽ではない。音だけではなく、その人となり全てで表現される“生き様”である。そういう意味でPOLYPHIAはまず非メタルであり、“まじめにメタルやってるひとたち”に失礼なのである。

そういうわけでメタル戦士はなんとしてもPOLYPHIAを認めたくない。上記の“メタルではない”論理はあくまでメタルではないとするだけで、音楽的には認めることになってしまう。やはりここは曲を貶めたいところだ。とはいえ、POLYPHIAの技術はまじめにメタルやった末のそれであり、その点で貶めることはできない。必然的に矛先は作曲面に向かう。そして必殺テンプレワード「テクニックだけ」が発動する。

この言葉のイヤラシイところは、作曲能力の低さやそれ以外の惹きつける“何か”のなさが、まるでその技術力の高さによるものだと錯覚させるところにある。真面目に練習をした、という褒めて然るべき点を、マジメに練習しすぎて偏ってしまった、という印象へと繋げてしまう。もちろんそこに具体的な考察はない。ただ印象として、そうである、と断定する。論述として技術も美しさもない愚かな所業だが、その自尊心は醜く保たれる。

テクニックと解釈

もちろん、実際にテクニックだけの音楽もある。その最もな例は、そう、“歌ってみた”などの“してみた系”動画である。ここでいうしてみた系動画とは、既存の曲を素人が演奏する動画をさしている。人気のある人物のものだと再生数が10万回を超えるほどで、特に“歌ってみた”は歌い手という新しい概念が出来るほどのムーブメントとなった。これらの動画の投稿者は基本的に素人であるが、そのためもあり、動画の評価は「素人がいかにうまく演奏したか」という面が大部分を占めているだろう。

とはいえ、これだけしてみた系動画が普及した現在ではおそらく「テクニックだけ」以上の水準を求められる場合もあるだろう。他人の作品を流用して演奏するという点でクラシック音楽はしてみた系動画と共通しているが、クラシック楽器では楽譜を再現する、ないし豊かに表現するといった演奏技法がある程度の水準に達すると、「曲を解釈する」ことを要求される。解釈はいわゆる一般的に言うテクニックとは別の技術であり、それが出来ていないとただ弾いているだけ、すなわちテクニックだけと受け取られてしまう。してみた系動画でも同様で、普及によって全体の水準があがってくると、演奏がうまい以外の付加価値が重要になってくる。そして解釈はその付加価値のひとつになり得る。解釈の個性はそのまま演奏者の個性であり、そうなればもはやテクニックだけとは言われない。

さて、他人の曲を演奏するよりも自作曲を演奏するほうが解釈は意識されない。基本的に自作曲には自分自身のイメージがあり、自然と解釈のようなことが行われている。とはいえそれは明確に行われていない以上、解釈が不十分だったり楽曲にそぐわなかったりする可能性も出てくる。自作曲を演奏していて「テクニックだけ」と批判されるようなひとたちは、作曲技術の低さとは別にこの解釈がうまくいってない可能性がある。逆にテクニックや作曲がお粗末なのに何か惹きつける作品は解釈がしっかりしているとも言える。解釈は楽曲的にはアレンジとして表れるだろうが、アレンジをする前に今一度自分が何をやりたいのか、自分がどういう音楽遍歴をたどってきたのかを思い出してみると良いかもしれない。その上でマジで「ひたすらテクニックを見せつけたい」と思ったら、それは立派な解釈として人を惹きつけるんじゃないでしょうか。

と、ここまで書いてきて、やはりテクニックだけで許されるのはプロ未満の演奏者だけなのかな、という感じがしてきた。改めてPOLYPHIAを見てみると、なるほど彼らはレコード会社と契約しているわけでもなく、現状セミプロのような位置だ。現時点ではそのことと「こんな顔立ちでこの演奏wwww」という驚きでおもしろがられている感はあるのかもしれない。ここから一歩先に出てプロの土俵で勝負したときにどうなるかというところだろう。

現在彼らはボーカルオーディションを行っている。ここで彼らの曲を良く理解して表現してくれるボーカルが選ばれれば、彼らの楽曲に自然と解釈が付加されるだろう。ぜひよいボーカルを見つけて欲しい。

ちなみにボーカルオーディションについては下記記事がわかりやすいのでどうぞ。

Guitar Idol ギターアイドル 非公式ファンサイト Polyphiaボーカルオーディションを見てみる – 2013-9-15