ファーストアルバムの意義その1:初期衝動ってなんだよ

前書き

高タンパク質な食事をしていたら人生初の便秘になってしまいました。つうことでカタいウンコを出すべく便座のうえでウンヌッとうなっていたら便がアナールから降り落ちると同時に以下のような考えが形而上から降り落ちて来た次第です。

便秘解消したものの本発言はいろいろとすっきりしない表現ですのでいっちょキバって長文したためてやりましょう、というのが今回の記事。すなわち「作品を出し続けることによる一般的な志向の変化」が主題です。

素人による音楽作品制作が含む曖昧さ

作曲素人が曲でも作って録音してみようかしら?と思うとき、なんとなしの方向性がそこにはあります。それをここでは心象とでも呼びましょうか。心象で、例えばわかりやすいのは曲のジャンルで、メロコアがやりたいとか、ブラックメタルがやりたいとか、そういうの。あるいは「あの太眉、キーボードらしいしキーボード入れねぇとな……」っつー演奏形態への配慮や、「あの絵を音楽にしてみたい」などという非音楽的要素なども含まれるでしょう。そういうのをひっくるめて、「音になる以前の音」とでもいうようなものが頭のなかにできあがってきます。

で、そうした心象がどれだけ具体的かっていうのにはその時々で差があるでしょう。もっとも具体的なのは「○○(ジャンル名や作品名)みたいのがやりたい!」っていう、すでにこの世に存在している曲を目指す場合。完成形が聴けるのでそれに向かえば良いですね。具体的。わかりやすい。

 「DIR EN GREYみたいなのがやりたい!」(動画はイメージです。本稿とは一切関係ありません)

これが「DIR EN GREYにブラックメタル混ぜたようなのがやりたい!」となると具体度が下がります。基本的に、目指す方向性のために思い描いた要素が多いほど心象は曖昧になっていきます。したがって、そうして曖昧になればなるほど、非常にぼんやりとした完成形を目指して作品を制作をすることになります。

さてその制作。これが初心者にとっては非常に大変です。機材は何が必要なのか。どうやって録音するのか、編集するのか。曲は、音は、どうやって作るのか。ミックスは、マスタリングは……と、技術的課題は山積みです。ある程度経済的な側面も要求されます。

その困難を乗り越えてようやく作品を完成させたとしても、当初思い描いていた理想像にビシッと合うようなものができる可能性は限りなく低いでしょう。これは技術力不足によるものです。心象を正確に出力する技術が伴っていないわけです。そのせいで、出力時に余計な要素まで混じったり、目指していた要素が欠けたりします。上記の例なら、DIR EN GREYを目指してるのにthe GazzetEが入ってしまったり、ブラックメタル感を出そうとトレモロをいれたらポスト感も出てしまったり。そうやって出来上がったものの具体度は、当初の心象と比べてより曖昧になってしまうわけです。

つうことで、最初のアルバム≒編集音源制作技術の未熟な人が作ったアルバムは、最初に目指した方向性の具体度に関わらず、複数の要素を、それもにじんだ形で孕みやすいということになります。

成熟による心象の具体化

さて、これが二作目、三作目となっていくとどうでしょう。単純な経験の蓄積によって制作技術は向上し、より心象を具体的に出力できるようになるでしょう。

一方心象それ自体。こちらも具体性を増します。曖昧ながらも、「音になる以前の音」である心象を実際の「音」として完成させた経験が、心象へと帰還されることで心象そのものの具体性を増幅させるのです。たとえば出力された「DIR EN GREYにブラックメタルを混ぜたようなの」が、本人の印象から満足いくものであれば、曖昧だった当該の心象に実際の音楽が付与されて具体的になります。あるいは当該出力が本人の印象から外れていた場合でも「これではない」という、いわば外堀から埋める形で当該の心象が具体性を増します。

そしてさらに、「音」の心象への帰還は、その心象そのものが本当に自分の目指していた心象と合致していたかどうかの判断の手助けにもなります。

すなわち作品制作は「やりたいこと」を原段階から研ぎ澄まし、同時に「やりたいことがなにか」への指針にもなるということです。両者ともに「やりたいこと」を明確にしていく働きを持っています。

以上をまとめると、制作をこなせばこなすほど、(1)心象という音楽以前の形、(2)その心象を実際に音楽にした形、この二つの形において作品の曖昧さが薄れ、具体性を帯びていく、ということになります。

初期衝動ってなんだ

ここでちょっと話を変えて、ある言葉に言及していきます。それは「初期衝動」。音楽批評を読んでいれば、必ず目にする言葉です。なんとなくカッコイイ言葉だし、ロック感あるのでよくつかわれます。じゃあこれ、どういう意味なんでしょう。そらてめー、なんつーか、その、湧きあがる感情だよ!やってやるぜ!オラ!っつうよぉー、つうかそれを考えた時点でもう初期衝動じゃねーんだよ!!ごもっともです。ごもっともですが、そういうものを冷静に解析していくのが我々批評家の仕事です。なにしろこの初期衝動、初期作評に多用されるがゆえに、初期作の意義を解読する大きな鍵となるに違いないからです。ニーチェは神を殺した。しかし果たしてこの私に初期衝動が殺せるだろうか……?

初期衝動というものを考えるうえでひとまず明確にしておかなければならない点があります。それは作り手側にとっての初期衝動と聴き手側にとっての初期衝動は違うものだということです。言うまでもなく、初期衝動そのものが音楽に内包されるわけではありません。音楽は音であり空気の振動であり、感情ではありません。したがって製作者がいくら初期衝動的感情を持って作曲に臨もうとも、その感情が直接聴き手に伝わることはありません。聴き手が音楽を聴いて初期衝動を感じる際には音を通してであり、したがってそこにはなんらかの共通した音楽的な要素があるということです(補足:ライブで激しい動きをする、インタビューで反体制的な発言をする、などなど音楽作品以外の面での初期衝動はここでは除きます)。もちろんその共通項というのは人によって異なる部分もあるでしょう。ただ、多くの場合初期衝動は初期の作品に対して感じられることから、初期衝動的音楽要素にはある程度一定の志向性があることも予想されます。

同じ製作者が同じジャンル内で作品を発表し続けているのに初期作品にしか初期衝動がないという事例はたくさんあります。また、初期衝動はいろいろなジャンルの音楽に適用されています。ロックやパンク、メタルなどはもちろん、ヒップホップやレゲエ、ジャズなんかでも例が見られます(ウェブで検索してみてください)。この時点で初期衝動は単純な音符の並びや旋律以外の部分の何かだということになります。

さて、勘の良いかたは既にお気づきでしょう。そうです。この初期衝動を感じる際の「一定の志向性」こそが前段で言及した「曖昧さ」なのです。バーン!言い切ってやった!

前述の通り、曖昧さは心象段階での要素の絞り切れなさと、たとえ絞っていたとしても、出力段階での要素の確立できなさから発揮されます。要素が絞りきれないということはすなわち作品に多くの要素が内包されうるということであり、要素が確立できないということはすなわち作品中の要素が他の要素と混ざりやすいということです。

初期作品は意図するしないにかかわらず構造的に複数の要素がにじんだ形で含まれがち。そしてその雑然とした部分は作品を重ねるごとに薄れていく。製作者として成熟することで失われるもの……。それはまさに初期衝動的挙動と言えます。「曖昧さ」というすごく曖昧なものである、という点も、意味の説明に困る初期衝動という単語の内容としてふさわしいのではないでしょうか。もうこれ決定でいいんじゃね?初期衝動、死んだんじゃね?いいえ。もちろん、これだけでは証明弱いっす。承知してるっす。ただまあ、我々が作品から初期衝動を感じる際のひとつの重要な因子なんじゃねえの、くらいは言えるでしょう。そして「初期が良かった」論の背景には、単純な音楽的変化のほかに、少なからずこうした面が含まれていると予想させてください。

後書き

って結局曖昧で感覚的な話になった気はしますが……。もっと音楽的に考察するには、各ジャンルごとの初期衝動を考えていく必要があると思われます。だれかやって。え、オレェ?

それはとりあえず置いといて、次回はこの初期衝動というものが我々聴き手にどういう影響を与えるのか、つまり冒頭の文章の後半部分について長文をしたためていきます。さらにその次は、製作者側が初期衝動的なものを失わないためにはどうするべきかも考えていく予定です。えっ、まだ続くの!?続くよ!!

(表題画像はVectorportal.comからお借りしました)