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音楽CD買うのやめました:「LPの呪縛」と音楽の自由

音楽メディアの「音楽を所有する」唯一性の崩壊

音楽配信が普及するまえ、音楽メディアを持っているということは、その音楽を持っていることに等しかった。音楽メディアを持っていない場合、基本的にはその音楽を聴くことはできなかった。しかし現在、音楽配信などのネットサービスを使えば音楽メディアを持っていなくても公式かつ音楽メディアと同じ品質――あるいは体感的に同じ品質で――中身の音楽を聴くことは可能になりつつある。このように音楽メディアを所有することの「音楽を所有する」という絶対的な唯一性が崩壊した今、音楽メディアを所有するということの意味は変わってきている。

音楽メディアにおける「音楽を所有する」という意味は非常に大きかった。「音楽を所有する」意味の大きさを示す例として、数量限定盤収録の楽曲が別のCDに収録された際、限定盤の値段が一気に暴落する事例があげられる。楽曲はミュージシャンにとって最も主要な作品だ。その主要作品である楽曲を「持ってないひとは聴けない」という事実が独占欲を見たし、ファンとしての優位性をあげる感覚に強く結びついていた。しかし楽曲がべつの形で聴けるようになってしまうと、その作品――ひいてはミュージシャンを独占しているという感覚が薄れてしまう。その落差が価格という数値に表れるわけだ。

音楽配信が普及する以前より、以上のような、音楽メディアの「音楽を所有する」意味が大きく削られ、アートワークといったミュージシャン本来の作品以外のものの所有が主要素になること=グッズになることは、あるにはあった。ただしそれは非常に限定的だった。それがネットの普及でほとんどすべての音楽メディアに広まりつつある。

各所で指摘されている通り、昨今の音楽メディアはグッズ化が激しい。初回盤特典として豪華装丁や写真集、映像作品、応募券などが盛り込んである。こうした商法は一昔前まではヴィジュアル系の専売特許だったところがあるが、AKB48の爆発的人気も後押しになったのか、いまやメジャーどころで初回盤や特典なしでCDを出しているミュージシャンはほとんどいない。このことはメジャー音楽業界全体が、単純な音楽再生メディアとしてのCDは終わっていると感じていることを示している。

総合芸術としての音楽メディア

もちろんCDをそのオマケも含めての総合芸術、というように見ることもできる。ミュージシャンないしはミュージシャンをよく理解する人物がアートワークや映像を手がけ、それとあわせて音楽を聴くことでミュージシャンの意図や表現により深く迫れるような、総合芸術としてのCD作品はある。しかしそうした作品は稀である。装丁などによって音楽作品の楽しみが増すものはあっても、音楽作品とひとつになって「作品」を形成する類のオマケはほとんどない。ミュージシャン側もファン側も「作品」を意識しているのは、そのあたりをガチになってやっているSOUND HORIZONくらいなものだろう。

なぜそうした「作品」はほとんど生まれなかったのか。その背景には、経済的な理由はもちろんのこと、CDの「音楽を所有する」という唯一性が「CDは音楽を聴くためのもの」という固定観念を生み出していたことが考えられるだろう。つまりCDがグッズ化した現状は、「作品」の製作という意味ではよい方向に向かっている。グッズとしての意味を高めて他の商品との差別化に躍起になるなかで、オマケを一段階上に押し上げて「作品」を生み出すという発想が生まれても不思議ではない。

「LPの呪縛」

そこで問題になってくるのは、やはりCDという完成された形態だ。容量約700MB、直径12cmのディスク、正方形の歌詞カード。この形式が「作品」の表現を物理的に束縛している。もちろん現在わざわざCDプレイヤーで音楽を聴く層は限られているし、他の物理メディアもあるわけで、こうした束縛はもはや機能していないはず。それなのに相変わらずアルバムは60分だし、歌詞カードは正方形だ。これはレコード時代から我々の頭に刻みつけられている「LP」という固定概念がいかに根強いかを示している。CDはただCDという物理的事象としてではなく、「LP」という精神的な背景をもとにして表現を束縛しているのだ。

この「LPの呪縛」はデジタル配信にも及んでいる。なぜダウンロードしたフォルダのなかには一様に「cover.jpg」という名の正方形の画像が入っているのか。こんなものはなくてもよいはずだ。もし絵を音楽の補助的に扱いたいならば、ないし「作品」の一部として扱うならば、正方形である必要はまったくない。長方形でもよい。壁紙にできるサイズでもよい。gifアニメでもよい。あるいは、ファイルサイズの問題があるにしろ、映像作品やなんなら簡単なゲームや小説が入っていてもよいはずだ。しかし、現実には「cover.jpg」がほとんどだ。また、A PLACE TO BURY STRANGERSなどは『Worship』でご丁寧に歌詞カードをPDFファイルにして同梱しており、完全に「LPの呪縛」にはまっている。「LPの呪縛」はデジタルダウンロードにおいても我々の想像力を束縛している。

「cover.jpg問題」とiTunesの功罪

「LPの呪縛」はデジタルダウンロード時代においては「cover.jpg問題」をも生み出している。「cover.jpg問題」とは、あの正方形のアートワークからオマケ要素さえもが奪われ、単なる作品を認識する記号としての意味しかなくなってしまっていることだ。この問題はiTunesのカバーフローグリッドビュー機能の登場で加速したと思われる。作品の実物を取って眺めるという部分を省き、カバー絵と選ぶ行為の関係のみを取り上げてしまったことで、カバー絵の記号性がより深まってしまった。そしてその正方形の画像ありきの機能が「cover.jpg」以外の選択を取りにくくした。もちろん「cover.jpg」とはべつに付加ファイルを用意すればよいだけだ。しかしそれを行っているミュージシャンは極稀だ。この「cover.jpg問題」は、前述の「LPの呪縛」とあわさって、我々の想像力を制限している。iTunesがファイル形式の普及に多大な貢献をしたのは事実だし、現物からファイル形式へ移行する際に、「現物的な部分」を少しでもファイル形式にあたえて移行を促すという戦略を取ったのはわかる。だからこそ、結果的にそのことが我々を「LPの呪縛」からの解放から遠ざけてしまった。

「LPの呪縛」はいまだ我々の想像力を限られた形に押し込めている。陳腐な言い回しだが、音楽はもっと自由であってほしい。

アートと音楽の融合による「作品」

現在(追記:平成25年2月3日で展示終了)、東京都現代美術館で「アートと音楽」展が開催されている。Christine Odlundによる「セイヨウイラクサの緊急信号」――植物体内の化学物質の分泌を絵画風に楽譜とした作品や、ご存知池田亮司の作品などが展示されている。これらは現代音楽としての試みではあるが、こうした試みが今後商業音楽にも浸透すればおもしろいことになるのになあ、とおもう。

Ryoji Ikeda :: superposition [updated 28 JAN 2014] from ryoji ikeda studio on Vimeo.

もちろんアート(というより単純に映像)と音楽の融合は、ライブでは盛んに行われている分野ではある。一方でテレビの大画面化、映像の高画質化、メディアの大容量化が進んでいる昨今、現場でなくても、その表現と意図が十分に再現、伝達可能な環境が整ってきている。自宅での鑑賞を念頭にした「作品」が出てきてもよいはずだ。だが現状は初回盤のオマケにミュージックビデオがついている程度だ。デジタル配信となるとさらに悲惨で、映像と音楽を能動的に融合している作品は非常に限られている。べつに動画でなくても、画像や文章を同梱して、それを見ながら聴くことを推奨するだけでもいいわけだが、そういう作品はほとんどない。そういうことをするためには我々はわざわざインターネットで作品を検索するかライブへ足を運ばなければならないのだ。

そういう意味で、ボーカロイドは、アートと音楽の自宅における融合に現状で最も近い形だろう。ボーカロイド作品はニコニコ動画で映像といっしょに鑑賞するのが基本だ。音楽と映像の融合が積極的にされているといっていい。また、楽曲に映像イメージなどもろもろをすべてひっくるめて「ボーカロイド」というひとつの「作品」になっている点も、他の音楽作品にはない特徴だ(さらに滑舌の悪さを映像で補うという補助要素までついている)。もっともボーカロイドには映像以外にもいろいろな要素がついてまわるが、それも含めて、音楽表現の新しい形を指し示しているだろう。

逆に音楽から視覚イメージを一切遮断した作品があってもよいはずだ。CORRUPTEDなどはメディアへの露出をしないことで音楽作品そのもののみで表現を行っているが、そこからさらに進んだ形で、アートとの切り離しが起こってもいいはずである。

音楽に対する「LPの呪縛」

ここまで「LPの呪縛」の影響を、アートワークなどの要素へ焦点をあてて書いてきた。しかし「LPの呪縛」は、もちろんそれらに関する想像力のみを制限しているわけではない。音楽そのものの想像力も制限しているのだ。その最もわかりやすい例が再生時間と収録曲数だ。前述したが、相変わらずEPは3曲十数分で、LPは10曲数十分だ。でもべつに、デジタル配信なら上記の形でなくてもよいはずだ。たとえば、またまたCORRUPTEDの『El Mundo Frio』のように1曲70分でもいいし、1月に1度、その月を想起させる作品を配信する形でもよいだろう。だが現状では、そういう作品はその形態だけで注目される程度に飛び道具だ。またべつに、「EP」はあくまで「LP」を念頭においた作品で、「LP」の評価がそのミュージシャンへの正当な評価だとされる風潮がある。EPをどんなに出していても、LPは「ついに発売」なのである。こうした「LPの呪縛」は、ミュージシャン側と聴き手側の両方の意識に根づいている。Bandcampでは「LP」が配信されているし、レビューサイトは「LP」のレビューを主としている。レコード/CD時代はこれが妥当だったのはわかる。そして音楽メディアとしての側面以外にも、人間の集中力などの問題でこれが妥当だったのもわかる。しかしその妥当性が多くのミュージシャンと聴き手の想像力を縛っている可能性があるならば、打破されなければいけない。

「LPの呪縛」にとらわれているからといって、一般に不都合なことはあまりない。むしろとらわれているほうが都合がよいだろう。それくらい我々の音楽は「LP」に馴染んでいる。だからこそ、音楽がさらなる段階に進み、さらに自由な表現が成されるためには――室内楽がオーケストラになり、生演奏に電子音楽が加わり、ライブが編集音源になり……そういう変化を広範囲で起こすためには、「LPの呪縛」から解放されなければならない。

「LPの呪縛」からの解放のためにできること

「LPの呪縛」から音楽を解き放つためには何を行えばいいか。以下の行動は、微力だが確実に力になるだろう。

  • CDを叩き割り音楽をあの不自由な銀板から解放すること。
  • 「CDは売れない」という現実をたたきつけ「LPの呪縛」の物理的発現たるCDを衰退させること。
  • 「cover.jpg」をごみ箱にぶちこみ、「LPの呪縛」の痕跡を跡形もなくなくすこと。
  • あるいはそれらが難しい場合には、「LP」という形態に縛られる必要はないことを我々ひとりひとりが意識すること。

「LPの呪縛」を払拭するには、音楽業界を根本から変えなければならない。そしてそれは、経済面でも感情面でも非常に困難だし、その変化は我々が尊敬するミュージシャンや敬愛すべきレコード屋、そして我々に大きな不利益をもたらすだろう。それでも、音楽はもっと自由であってほしい。その単純な想いから、私はCDを買うのをやめた。

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