「健康的」な音楽生活を送るための2つの指標。

自分の直感

再生ボタンを押して最初にまとまった音が流れたとき、どれだけ心が動かされるか。購入するか否かを決める重要な点でしょう。「人間の評価はほとんど第一印象で決まる」という文句を一度は聞いたことがあるとおもいます。また、映画に詳しい友人は「最初の2分くらいで良い映画かどうかわかる」と言っていました。音楽でも同様で、その作品の音の輪郭がではじめたところで大体好き嫌いはわかってしまいます。

第一印象にもっとも影響をあたえるのは“音作り”でしょう。低音がでているとか、芯があるとか、ひしゃげているとか。音作りは非常に重要です。なぜなら通常、それは作品を通して一定だからです。曲のつくりや雰囲気はひとつの作品中で変わることもおおいですが、音作り性は変わりません。アルバムの最後に入ってるおまけのデモ音源がアルバムの流れで認識されず、「あ、こっからデモ音源だな」とわかるのはこの音作りによるところが大きいでしょう。また、ミュージシャンが機材をやりくりして音作りに苦心していることからも、その重要さが伺えます。

音作りがあうアルバムを聴くのは幸せなことです。ケーキ好きがケーキバイキングにいくようなものです。逆に好みにあわない作品を聴くのはなかなか苦痛です。ナスが嫌いなひとにとっては、どんな味付けを工夫してもナスはナスでしかありません。ナス料理のフルコースなんてわざわざお金を払って食べる必要はないでしょう。

ということで購入動機としてひとつ、試聴の段階でどれだけピンと来たか、というのがあげられます。

ただし、じぶんの根本的で直感的な好き嫌いでのみ判断し、気の向くままに好きな音楽だけを聴くといずれ食傷します。飽きやすくなり、耳も偏ります。持続的かつ刺激的な、「健康的」な音楽生活を送るためには他の音楽もバランスよく聴くことをオススメします。

他人の評価

「他人の評価で購入する」とは、試聴してピンと来なくても購入するということです。

そういう作品をわざわざ聴くことにもきちんと「健康上の」意味があります。以下の3つの場合で考えてみましょう。

  • 好みにあわない
  • よくわからない
  • 作品がクソ

好みにあわない

「こういう音楽は好みじゃない」という感覚が具体的な作品名とあわせて認識されることは、直感を鋭敏にします。鋭敏になった直感は、自分の好みの音楽を探すのに役に立つでしょう。

よくわからない

その作品を理解するための土台がないことがおおいです。土台ができると「聴きどころ」がわかるようになります。この「聴きどころ」は他の音楽にも適用できます。うまくすると、自分の好みの音楽のよさも再認識できるかもしれません。

以上どちらかにあてはまる作品の場合、経験を積むことで、ある日すばらしい作品に聴こえるようになることがあります。食べ物で「○○は絶対食わねえとおもってたけど、最近むしろ好きだ」という話はよく聞きますが、あれと同じです。ピンと来ない作品をハジくことは、じぶんのなかに潜在している好みの作品、ないし好みそれ自身の放棄でもあるのです。

作品がクソ

とはいえ、そんなことは関係なく、じぶんにとってクソでしかない作品に出会うこともあるでしょう。そういうときは「いい経験になった」などとムリしてクソを食うのはやめて、中指立てて踏みつけてやりましょう。その衝動も感動のひとつです。

どの作品を選ぶ?

自分の直感にしろ、他人の評価にしろ、どの作品を試聴し、購入するのか。その判断に役に立つのがレビューです。私は「特定のレビュー媒体で条件Aを満たしたものは試聴する、条件Bを満たしたものは購入する」と決めています。たとえば「Metacriticsで月末もっとも高評価だったもの」。たとえば「Pitchforkで30点以下だったもの」。こうすることで、まったく興味がない作品でも試聴したり購入したりする動機ができます。

対象となるレビュー媒体は愛読誌でも素人のブログでも大手レビューサイトでも、なんでもよいです。私は以下の点を重視しながら、複数のサイトを参考にしています。

得点がついている

レビューを読む手間を省きます。

幅広い分野を扱っている

「幅広い音楽を聴いている人間の聴き方」がわかります。

特定の分野しか扱っていない

「その分野に特化した人間の聴き方」がわかります。

あくまで購入の参考にするのが目的なので、読み物としておもしろいかどうかは二の次です。

まとめ

「健康的」な音楽生活を送るための流れは以下のようになります。

  • 自分の直感:レビューなどで興味を持ったら、とりあえず試聴し、気に入ったら購入する
  • 他人の評価:特定の条件を満たしたら、つべこべ言わず試聴するか購入する

ここまで書いておいてなんですが、べつに音楽なんて「健康的」でなくてもよいのです。身体は健康的でないと不都合がでてきますが、音楽鑑賞ではそういうこともありません。「健康的」とはひとつのやり方でしかありません。というか私は「健康的」であったことに多少の後悔もあるくらいです。浅い!浅いんだおれはっ!!

とはいえ、おおくの情報がたやすく手に入る昨今、この記事が示す「健康的」なやり方が、情報選択に少しでも役に立てばよいなあ、とおもっております。

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EARLY GRAVES『Red Horse』で死についてちょっと考えた。

デスメタルはリフだ。そして、リフは輪郭だ。頭をふるべきはっきりとした断続だ。誰が軟弱なトレモロでヘッドバンギングするってんだ?聴いたあと、首がもげるほど「ヘッドバンギング」の記号で満たされている。それがデスメタルってもんだ。

ハードコアはリフだ。そして、リフは肉体だ。暴れまわるべきはっきりとした塊だ。誰が軟弱なギターソロでモッシュするってんだ?聴いたあと、痣だらけになるほど「モッシュ」の記号で満たされている。それがハードコアってもんだ。

さて、EARLY GRAVESはFacebookでこう記している。

The band’s sound has been described as a mixture of old school Swedish death metal and American hardcore punk and have drawn comparisons to Napalm Death, Carcass, Tragedy and Testament among other.

そしてその通り、彼らはヘッドバンギングに必要な輪郭と、モッシュに必要な塊、デスメタルとハードコアの記号を見事にその音に宿している。輪郭は主にドカドカとクソうるせえドラム。塊はうねりながら低音をまきちらすギター。基本はこれだ。

このふたつの記号は意外と両立しない。輪郭は断続であり、塊は連続であるからだ(もちろん、実際にヘッドバンギングやモッシュをするかどうかは別として)。とはいえデスメタル(もっと遡ればスラッシュ)とハードコアが誕生して数十年、両記号をうまく相溶させたバンドは少なくない。クロスオーバースラッシュというジャンルがある位だから、スラッシュを源流にもつデスメタルがクロスオーバーするのは不思議ではない。つまりこの手のバンドの場合、そのふたつの要素を「どう組み合わせたか」が問題になる。そして彼らの場合その肝はHIS HERO IS GONEからCONVERGEへと受け継がれる近年隆盛のハードコアスタイルだろう。輪郭と断続という物理的事象を、暴力と叙情という精神的事象で結びつけたというわけだ。

彼らにおいてはその混沌と叙情の発現のしかたもやや特徴的。混沌はなんといってもギターの音だ。10連ファズを踏み倒したかのようなぶっとい音は、もはやハードコアを通りこしてヘヴィドローンのうねりの境地に達している。その音でまー突撃する。一方叙情のほうは、コードの妙。あんまりこの手のバンドがつかわないような、どちらかというとインディロックが好みそうな違和感のあるコードを要所で使用している。そしてそれがまた、こんなに暴力的なのに、感情をくすぐるんだわ。本人たちも感情を抑えきれなかったのか、#8「Quietus」の最後で突如叙情的なポストメタルやってしまってるし。

そう、押さえきれない。なにをって、前ボーカリストの死に対する哀しみをだ。

2010年8月、前作『Goner』の発売の1ヵ月後、彼らは当時のボーカリストMakh Danielsを交通事故で亡くした。その深い哀しみは、同年10月の激ロックインタビューで語られている。

  • 2010年の8月2日は俺たちにとって本当に最悪の日だった。
  • 電話をしてももう彼は居ない。まだショックから立ち直れてないし、彼に帰ってきて欲しいと思う気持ちでいっぱいだ。
  • 俺たちは一緒に出かけなくても、毎日のように音楽や人生や愛や、今後の色んな計画について電話で話したりしてたね。
  • 彼はEARLY GRAVESが大好きだったし、彼のすべてだったんだ。

もうやめたげてえ!(フジョ的な意味で)

さて、本作『Red Horse』はそのものずばりヨハネ黙示録の第二の騎士をさしているだろう。第二の騎士は赤い馬にのった剣をもつ騎士で、平和をうばい世界に戦争をもたらす。歌詞は手もとにないのだが、曲名から察するに作品全体で戦争が起こって世界が消滅へと向かう内容になっているとおもわれる。その最後が前述の#8「Quietus」である。消滅の果てを叙情的な音楽で飾る、というのはややベタではあるが、やはりその唐突さには何か理由があると勘ぐらざるを得ない。そしてその理由がMakhの死だった。彼の死が、彼らの音楽にひとつの具体的な陰を落とし、それが暴力性から滲み出でて最終的に増幅発散してポストメタル的音像となった。……というのは少々できすぎた話だろうか。

私は当事者ではない。だから、彼の死に過度に感傷的になりはしない。彼の死を嘆くこともしない。ただ作品から、彼の死があたえた影響を、ただ作品のみから感じ取り、そこに彼の「生」を見出す。それはたしかに冷徹だし陳腐だが、それが部外者のいちリスナーでしかない私ができる、最大限の鎮魂である。

LENTO『Anxiety Despair Languish』でわかったあの「黒さ」の正体。

は?なんなのこの腑抜けた低音は?あの『Icon』で聴かせたウゾウゾと不定形に這いずりまわるエグい音はどこいったわけ?LENTOって、『Earthen』で見せてたPELICAN流れの重低音を、次回作でも失わないばかりか、UFOMAMMUTに感化されたようなぶっちぎりの黒さで加速させた点が素晴らしかったんだよ。それが、うう、こんな、あんまりだぁぁぁ、HEEEYYYYAAAAA!!あんまりだあああああ!!

とエシディシ式に頭を切り替えたところでもう一度この作品を聴いてみると、いや、そんな嘆くことないでしたよ奥さん。本作は端的にいうとポストデスメタル。ポストメタルの特徴である変拍子および倍音と情感にあふれたリフに、デスメタルの肉感あふれる突進力とザラついた攻撃性がまじりあっている。結果、音としては前作とはちがったものになっているけども、最終的な感情の到達点はやはり圧倒的な悪意であったのだった。

変化は音以外にもあらわれている、たとえばジャケット絵。前作はなんだかよくわからない黒っぽいモヤモヤしたものだった。一転今作は弦楽器を奏でる亜人で、CRYPTOPSY『Non So Vile』に近い、宗教画風ではっきりとしたモチーフのある絵になっている。そして曲名。過去作は『Earthen』と『Icon』の17曲のうち、16曲の曲名が単語ひとつだけだ。それが今回は#3「Death must be the Place」といった文章も曲名になっている。これはもうバンド側がはっきりと意識して具体化を行ったと考えてもいいだろう。

そしてそう、具体化。それを手がかりにして作品を聴くといろいろ腑に落ちるのだった。すなわちジャケットが黒い抽象的な絵からモチーフのある具体的な絵になったように、音も抽象的な「黒さ」から具体的な悪意に変わったと考えるのだ。いや、変わった、というよりは正体をあらわした、に近いか。ウィーザドリィでいう「ぶきみな せきぞう」がガーゴイルだとわかったようなものだ。見え方が異なっても、こちらからすると中身はまったく変わらない。

この「音楽的には変化したがその音楽がもたらす情感は変わらない」っていうのは、聴き手にミュージシャンの核心を確信させ、一生ついていくぜ!という決意をもたらす類の偉業であり、また、革新派と保守派両者を納得させる偉業でもある。そしてそもそも本作がこの手の音楽としては非常にできた作品であるという事実。まとめると、この作品はいろんなひとから「最高だぜ!」といわれるようなスゴいもんなのである。

……とはいえウィーザドリィでも正体不明の影のほうが名前の知れているモンスターより恐ろしいのは事実……あの低音が恋しくないといえば嘘にはなるのだけれども……それでも、やはりまあ、一生ついていくぜ!!

ちなみに前作『Icon』は無料でダウンロードできますのでぜひお試しあれ。

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CITY OF WOLVES『City Of Wolves』が想像以上に狼街だった。

音楽性は重いリフを主軸としたインストロック。RUSSIAN CIRCLESやte’に近いか。とはいえそれらのバンドのように、おのおのの楽器がぶつかりあうわけでもなく、感情を剥きだしにするでもなく、淡々と冷えた景色を描いていっている。それは確かに群れをなさない狼のようだ。情報を削り落とした曲名からも孤高の姿勢が見え隠れしている。CITY OF WOLVESというのは伊達ではない。

さて、アートワークを見るとわかることだが、彼らは曲名やアートワークに日本語をつかっている。ジャケット絵にはでっかく「狼街」って書いてある。曲名もこうだ。

  • Maeoki
  • ichi
  • San
  • go
  • Hachi
  • Makuai
  • Shi

DEFTONESの「Koi No Yokan」といい、INTRONAUTのひとが日本語Tシャツ着てるのといい、あれか、日本語流行ってるのかしらん?で、これを見てまーとりあえず「Maeokiってwwww」「Makuaiなんて日本人でもつかわねえよwwwww」「数字の順番wwwwwww」と笑いそうにはなるんだけども、冷静に考えると日本も英語話せねえくせにかっこつけて「Introduction」「Interlude」「In the my way」なんてやってんのよね。もちろん言語として特異で難解な日本語ではなく世界標準の英語をつかうってのは、自分の作品をよりおおくのひとに理解してもらうという意味で、音楽家としてまったく自然で正しい行為ではある。でもだいたいそこまで考えてないよね。海外の作品の真似してるだけ。だからこそ正しく使えているんだけど。

一方彼らは世界を捨ててあえて日本語を選んでいるわけだ。その理由は、本人たちがどんなに理屈をこねても、突き詰めれば「ナンカ ニホンゴ カッコヨクネ?」という逆ミーハー根性になるのだろう。そういう意味では前述のDEFTONESやおおくの日本のバンドと変わらない。ただ、日本人の嫌う「死」がしっかり最後に来ているあたり、ちゃんとミーハーなりに意味があって、彼らのイメージするところとニホンゴが頭のなかでしっかり一致していると推測される。というか、そうでなければ、こんなにガッチガチに「狼街」の雰囲気で固まった作品をつくるのは困難だろう。

「狼街」は日本人にしか伝わらないので、言葉それ自身の効果は我々以外にはほとんどない。ただし、あえて異国の言葉を選び、それに従って音楽作品を作るという行為は、その異国の言葉を音楽に宿すことに他ならない。歌詞でもなく、曲名でもなく、ただ音楽によって、音楽に言葉を宿す。それは音楽と言葉に真摯に向き合わなければできないことだ。そして彼らはそれを成しえたようだ。

「狼街」は、たしかにこの作品のなかに存在する。

余談だけど、12月22日現在、彼らのFacebookアイコンがサンタ帽子をかぶった白狼になっている。ちょっとかわいい……。あと、Bandcampのジャンルタグに「Post-office」といれたりしてて、かなりジョークの効いたひとたちのようですね。