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SAMOTHRACE『Reverence To Stone』の神話的マリワナ志向で葬々。

基本的には大作志向のポスト系ストーナーというかんじ。ただ、葬式ドゥームの有名どころ、MOURNFUL CONGREGATIONを扱う20 Buck Spinレーベルから発売ということもあって、葬式ドゥーム的要素も通り一遍もっている。リズム楽器としての役割を果たしてないドラムとギターの重い一撃が憂鬱なメロディを奏でているところに反響のききまくったグロウルが乗る形。全体として感情の方向としては葬式に近い、鬱々しいものなんだけれども、前述の大作思考が要所要所で顔をだしておりそれだけには留まらない。ポストロック調に悦ってみたり、速度をあげて生き急いでみたり、雄弁なギターソロしてみたり。それが葬式とないまぜになって、結果EARTHが『Angels of Darkness, Demons of Light I』で奏でてたような、哀愁と倦怠感ただよう臭みのある葬式―いやこれもう葬式じゃねえだろ、っていう状態になっている。

どっからこんな哀愁メロがでてくるんだ、あるいはどっからこんな葬式フレーズがでてくるんだ。そのあたりを探るために歌詞を見てみよう。

#1「When We Emerged」の歌詞は、海から地上にあがってきた我々生物が洪水によって海へと戻される、という内容で、そのなかで生死の意味などを語っている。死を前提とした物語のなかで、生きることの苦悪を書くようなひとらだから葬式ドゥームが採用されてもおかしくない。

歌詞であつかわれているような大洪水というと旧約聖書の「ノアの箱舟」が思い出される。一方彼らのバンド名は、ニーケー像で有名なサモトラケ島から来ている。ニーケーはギリシャ神話の勝利の女神だ。聖書とギリシャ神話を世界観に両方ふくんでいるあたり、彼らの死生観を描くためなら題材に関しては節操がないのだろう。とはいえ観念的/幻想的世界観ではなく、具体的な神話群を取り扱っているところは共通している。自分の感情と詩に落ち込まず、神話をもとに死生観を描くという神話学に近い方法が、葬式に振り切らない要因のひとつだろう。

雰囲気としては以上。音楽としての質は非常にすばらしいのひとこと。ただズズーンと長ったらしくギターならしつづけるだけではなくて、ハウリングなどの装飾をしっかり扱っている。冗長になりがちな大作ドゥームだが、しっかりと展開させて世界観を深めている。個人的には、#1「When We Emerged」の3分20秒、イントロのくだりがひととおり終わって、葬式パートに入るまえの柔らかな、タァァンというドラムにジュンと来た。こういう静の盛り上がりを表現できるってのはステキなことだとおもう。

非業にまみれて死にたいひとには明るくて、煙にまみれて昇りたいひとには感情的すぎるやや癖のある音楽性ではある。しかしながらその癖と、その癖を存分に発揮できる才能に私はやられてしまったのだった。

あと、メンバー写真、中目黒の小物屋感出してて笑う。

member

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THE COLOUR PINK IS GAY『i/O』のキャベジンいらずのコッテリ感。

高校時代、虹色のブレスレットをつけてバーにいったら黒人にすりよられてカマ掘られそうになり、最後は「レインボーはゲイの合図なんだよ」と優しく諭されて帰ってきた知人の話をおもいだし、「いや、THE COLOUR RAINBOW IS GAYだろ」ととりあえず突っ込んでおいた (尻穴に)。

ひとまずはテクニカルデスコアといったかんじで、ザクザクとグルーヴィにリズムをきざむギターにテロテロ上下にせわしないギターを絡ませるスタイル。最近のCRYPTOPSYにちかい。たしかにバンド名からも、FLO様が若いボーカルをご寵愛なさっているというゲイズムあふれる事実へのリスペクトがにじんでおる。なあ。

などとおもっていたら、それだけではすまず。CONVERGE直系といったカオティックなフレーズやネオクラスト/ポストメタル風の重厚な叙情性、MESSHUGAHっぽい変拍子、ポストロックっぽいトレモロなどがからみもうなにがなにやらわけわかんねー。なんかジャズとゲイのセクシーボイスもぶちこまれてくるしよー。

そのニンニクヤサイマシマシアブラカラメなこってり感に脳がもたれてゲリゲリゲリゲリと下劣な笑いを出していたんだけれども、聴き終えてみるとなんかすげー後味よいの。これたぶん、ぶちこんでる要素の配合と切り替えの時期がいいんだろうなあ。うえにあげたような要素ってのは大御所のフォロワーがうじゃうじゃわいてて「いやもうそういうのいいから」っていうジャンルばかりなんだけれども、やはり音楽的にカッコいいわけで、好きなひとが聴けばふいに出てくるとやっぱり「おっ」ってなるもの。その「おっ」が「あーでもこれアレじゃんねえ」ってなるまえにデスコアにもどって、また次の要素にうつる。そうね、大体30秒以内にはいったりきたりしてるんじゃないかしら。

そういう雑多な音楽性でもまとまって聴こえるのは、そもそもが「テクニカル」っていう印籠ぶらさげてるっていうのもあるし、あとはボーカルの使い分けのうまさもある。まさにデスコアな下水道声からグルーヴメタル風野生声、カオティック風高音シャウトまで、まーなめらかに叫びあげるんだわ。ボーカルはひとりだけど、たまに掛けあいになるのでべつのひとがコーラスをやっている模様。

なにぶん基本の音楽がデスコアなうえにいろいろ詰め込みまくってるのでジャンクフード感は否めない。けど、たとえばマクドナルドみたいなジャンクフードだって期間限定メニューやオマケを駆使して我々を惹きつけ収益あげまくっているわけだよ。そして我々よりよっぽど舌のこえた人物たちがあれこれ苦心して「ジャンクフード」をつくりあげているわけだよ。そう考えるとこの作品は、とても前向きな意味でジャンクフード的。今後も思い出しては聴き、思い出しては聴き、中毒に陥っていきます。

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mewithoutYou『Ten Stories』が「神」盤すぎて、「私」、私になります。

mewithoutYouとその歌詞世界

Pennsylvania州の4人組ロックバンド、mewithoutYouの3年ぶり5枚目のアルバム。長年世話になったTooth & Nail Recordsから離れ、自身で設立したレーベルからの発売。

このバンドの最大の特徴はボーカルAaron Weissの宗教に根ざした詞と、朗読にちかい唄。それはポストハードコアだった初期でも、おおきくフォークロックへと路線を変更した前作でも変わらない、強い特徴だ。

Aaronの家は父親がユダヤ教、母親が聖公会からそれぞれイスラム教神秘主義改宗している模様。ただ、息子に信仰を強要しなかったし、息子がクリスチャンの集会に顔を出すようになっても否定せず、逆に神を信じるようになったことを喜んだとインタビュー (Busted、27 Apr. 2007) で語っている。

彼の詞には神という単語がよくでてくるし、彼がクリスチャンであることから、クリスチャンバンドと語られることもあるようだ。これについてAaronは、聴き手がどう感じようと自由だけど、という前置きをおいてから<Our hearts are very far from Jesus>とはっきり否定している。一方でこのようにも語っている。

 But I also have a very clear sense of mission and purpose that I believe is from God (snip).
 でも、僕はかなり明確に使命感と目的を持ってやっていますね。それは神が与えたものだと信じてます。(一部略)

 Just loving God. It’s love ― that’s the only thing that I want people to take away from it.
 ただ神を愛すること。そう、愛 ― それこそがみんなに僕らの音楽から感じ取って欲しいことです。(訳について補足: take away fromの意味がビミョーですが、文脈からたぶんこうだととりました)

なるほどつまり、キリストという特定の神ではなく、もっと広い意味での「神」と個人の「あり方」について書いているということだろうか。確かに宗教的に寛容で多様な家庭で育った彼が宗教そのものではなく、その「あり方」を意識した歌詞を書くのは自然のことに思える。

とはいえ「神」が絡む宗教にあまりなじみのない平均的日本人の私が彼の歌詞をそういう元来の視点で理解できるわけない。私にとっては宗教や「神」との対峙は一種の哲学にすぎない。だからこそそうした目線で理解するのがスジってもんだ。

『Ten Stories』の音楽性と歌詞世界の高い親和度

前置きが長くなったが、今作『Ten Stories』の話に移ろう。この作品は10の物語と1つの教示によって構成されるコンセプトアルバムだ。その物語の内容は

  • サーカス団をのせた列車が事故を起こして動物たちは逃げ出す。
  • 動物によって疫病が蔓延するという噂がまたたく間にひろがる。
  • それぞれの動物たちのそれから。

というもの。それぞれの曲はそれぞれの動物の台詞を中心に構成されている。それぞれの動物は以下のような結末をたどる。

  • トラ: (人間を威嚇して皆を逃がすために?)その場にのこり捕まる。
  • クジャク: 逃げずにゆらゆらゆれてたら捕まる。
  • ゾウ: 「逃げるには目立ちすぎるし老いすぎている」という理由で逃げずに捕まり、群集に糾弾される。
  • ナスビ: なぜか1曲の主役に抜擢されているうえにしゃべる。
  • ウサギ: 国立公園へ向かう。
  • セイウチ: 旅するフクロウに一目ぼれされる。
  • キツネ: クマとともに行動する。体力の限界から足手まといになることを恐れ、クマに別れを告げる。
  • クマ: キツネとともに行動する。体力の続くかぎりキツネとともに行く決心を告げる。

あまり明るい物語ではない。アメリカンニューシネマのような儚い逃避行だ。そしてその雰囲気は、彼らの持ち前の音楽と最高に親和している。

初期のころ、彼らはいわゆるポストハードコアをやっていたが、徐々にフォーク/物語要素がまざりだして前作『It’s All Crazy! It’s All False! It’s All A Dream! It’s Alright』ではアコギ主体のフォークロック路線に振り切った。一方今回は、エレキギターとダイナミックなリズムを再採用して初期のポストハードコア要素が戻ってきている。フォークロックの哀愁と物語感にポストハードコアの焦燥感が入り混じって独特のロックになっていて最高にかっこいい。そしてうえでも述べたように、その音像はこのボニーとクライド的メルヘン動物譚と100%合致している。これはとてもすばらしいことだ。

作曲者はmewithoutYouとなっている。作詞とはちがい、Aaron以外も作曲におおきく携わっているのだろう。曲がさきに来たのか、詞がさきに来たのかはわからない。ただ、この作品は作詞者と作曲者がかなり親密に連携をとっていないとできないものだということは間違いない。そしてmewithoutYouはそれを成しとげた。これは彼らが「コンセプトバンド」として強固すぎる地盤をもっていることをあらわしているのだ。

これが彼ら自身のレーベルから発売されたっていう事実も何かうなずける。Aaronが語っているように、彼らには確固とした「信念」がある。それはレコード会社のコマーシャリズム程度では到底くつがえせる代物ではない。レコード会社のコーマシャリズムから解放された強く純粋な「信念」が、こうしたすばらしい作品を生み出した。コマーシャリズムとどう折りあいをつけていくか悩む過程で成長していくムックのようなバンドを追うのもおもしろいが、こうして信念と感性に安心して身をあずけられるバンドに出会えるっていうのは、音楽鑑賞をするうえでとても喜ばしいことだ。

難解な歌詞にさじを投げる

で、肝心の詞ですが、正直言って、まーどいつもこいつもわけのわからん内容を話しやがる。比喩がおおいうえに抽象的な言いまわしばかりで、うえにあげた概要も実はあってるかどうか怪しいくらいに難解。おれ程度の英語力ではぜんぜん訳せねえ、日本語でも意味を汲みとるのに難儀しそう。ナスビがしゃべるし。

一応一節を引用してみよう。

[Peacock:]

And I often wonder if I’ve already died
クジャク:
(サーカスの楽しげな様子をつらつらと語ったあとに)そして、大体自分がもう死んでるんじゃないかっておもうの。

[Tiger:]

I often wonder if I’ve already died,
Or if the ‘I’ is an unintelligible lie
トラ:
(わけのわからんことをつらつらと語ったあとに)自分がすでに死んでるんじゃないかと考えてしまうよ。あるいは、この「私」はあいまいな嘘なのかもしれないな。
#4「Cardiff Giant」

ね。全編こんなかんじ。「私」とか括弧つきでいっちゃって自我語っちゃうわけですよ。トラとかゾウとか、あとナスビが。もうお手上げっす。どなたかうまいこと日本語訳してください。謝礼ははずみます。

「私」に「神」が与えてくれるもの

ただこういう一節がある。

it’s pretty obvious that there’s no God
and there’s definitely a God!
ここに神がいないことは見え見えだ。
そしてここにはもちろん「神」がいるんだ!
#7「Fox’s Dream of the Log Flume」

これを見ると、「神」は場合によって多様だし、「神」とのありかたというのは多様で、それが「私」の形成に関わってくる、という内容が彼の詞のなかで重要な意味をしめているのかな、と感じる。そしてその「神」がなんなのかというのは、最後の曲#11「All Circles」のなかに答えがあるように思える。この曲は以下の歌詞の繰り返しで構成される。

All circles presuppose they’ll end where they begin
But only in their leaving can they ever come back around

すべての円は始点を終点とすることを前提としている
しかしただ円が始まることでのみ、常に周り戻ってくることができる

この歌詞を、文の途切れなどお構いなしにシンガロングしつづける。ぐるぐるぐるぐるぐる…。

『Ten Stories』は破滅の物語に思える。ほとんどの動物が、のたれ死ぬか病気の温床として殺処分されるかのような記述がされている。しかし実は、彼らの結末は明示されていない。あるいは彼らはまたもとのサーカス団に戻り、人間の服を着て、綱をわたり、人々を楽しませているかもしれない。元の不自由な生活に戻っているかもしれない。

それは一見いままでと変わらないようにおもえる。しかし列車事故による束の間の自由を得たことは、確実に何かを変えているのだ。同じ地点でも、静的な一点と動的な円の中の一点では、まったく意味が変わってくるのだ。

だから我々も、一歩踏み出そう。何をしても、結局いつものあの「私」でしかないかもしれない。それでも我々は巡ろうではないか。巡り巡るなかでの「私」を幾度も再認識しようではないか。そのなかで「私」というあいまいな嘘は、私という確固たる事実に変わっていくのだから。

私を形成するために円を巡る意志。それを与えてくれるのが「神」だとするのなら、このアルバムは、まさしく私の「神」であり、「神」盤であるといえる。

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EAGLE TWIN『The Feather Tipped The Serpent’s Scale』に漂う鈍重帝王の風格。

なにがEAGLE TWINだよ!EAGLE TWINっていうより、もうEVIL TWINだよーーー!

とバンド名からなまじPELICANの大自然ドゥームを思い浮かべてしまったために、そう叫ばざるをえなかった鮮やかな記憶しかないデビューアルバム『Unkindness of Crow』から3年。ついに悪意と敵意の二人組みEAGLE TWINのセカンドアルバム『The Feather Tipped The Serpent’s Scale』がブッ届けられました。前作同様鈍重界のエリート集団、Southern Lordから発売。

鈍重なリフ。お経ボーカル。定速シンバル主体ドラム。と主材料を並べると、はいはいドゥームドゥーム、スリープスリープってかんじなんですが、いやこれが他にはない趣どころか全く他にはない独自性を持ってるんですよダンナ。

そのおもな理由は圧倒的な展開力。たとえば「Ballad of Job Cain Part I」なんか、ほとんど単一のリフでつくられているけれども、何種類もリフがあるかのような劇的な展開を見せている。そのいちばんの立役者はドラム。うえでは定速シンバル主体と書いていて、ドゥーム的な意味でもちろんそれは正しい。けどそれがドゥーム的意味だけではなく、ポストメタル的意味になってるっていう面がある。シンバルとバスドラを主につかって、スネアで変則的なリズム感を演出するアレだ。これがあるから強い。この2種類のドラミングで肉体的音圧と精神的音圧を同時並行で醸しだしている。すごい。こんなのアタシはじめて…。

もちろんギターも―あくまで「リフレイン」の範疇のなかでだが―その音圧の渦にあわせて巧みにフレーズを変えている。

これはただSLEEPやMELVINSをなぞって音圧を求めるだけの単細胞ドゥーマーにはできない芸当だ。どうしてこんな凄げーことになってるのかしらん?とインタビューを読んでいたら、こんなこと言ってた。

…the words and story usually come first and suggest the structure.

(前略) 言葉と物語が、大体最初に来るね。そこから構成が生まれてくる。

HAILS & HORNS – Featured Interview: EAGLE TWIN — By Morgan Y. Evans (4 Oct. 2012)、「音と物語、どちらを重視していますか?」という問いに対し、RH.Angylusの超訳)

ほう。物語が先にあるってのは、プログレ勢の専売特許。しかも構成がそこから出てくると来たもんだ。そりゃあこんな劇的な展開力が生まれるわけだ。

この事実はお経ボーカルにやたら説得力がある理由にもなる。ボーカルからメロディを排したことが、ストーナー的持続感の補強とはべつに、「語り」としての意味を増強している。

そして何といっても、以上もろもろの音楽的事柄を包み込む、圧倒的な悪意と敵意!涎が止まりませぬ。この手のドゥーム界隈って、純粋に音圧のみで我々を踏みツブすニュートラルな連中がおおい。でもこやつらは黒い感情剥きだしで威嚇してくる。失禁!失禁!

音にこめられた感情が目立つのはうえで述べた展開力の力とはいえ、その根本となる物語はどんなだよ。どんな物語に根ざしたらこんなエグい音になるんだよ。残念ながらデジタル購入なうえ歌詞がネットに掲載されておらず聴きとりできる能力もないので曲名だけしか情報がない。蛇が角になったってどういうこと?悪魔の角?ジャケ絵がケツァコァトルなこともあり、神学からんでそうですが…。この辺のことがわかるかたおりましたらぜひ連絡ください。

ちなみにこのバンド、ギター/ボーカルのGentry DensleyとドラムのTyler Smith、二人編成でベースがおりません。ドゥームやるのにベースレスっていうとこでまず意識がちがうよね。ただ低音だしゃあいいってもんじゃねえんだよ、っつう。自分に言い聞かせます。

まだ2作目だけど、何十年もまえからシーンを支えてきたかのような帝王の風格が漂うもの凄げー名盤。SLEEPやMELVINSあたりのドゥーム好きはもちろん、UFOMAMMUTなどの極悪系が好きなかたにもオススメ。もちろんSouthern Lord聴きはいわずもがな。いまのうちにツバつけときましょう。

「製作者の意思」を理解することなんてできない。だからこそ、おもしろい。

物理的に固定される「製作者の意思」

音楽作品を理解する際、製作者の意思というものが尊重されることが多い。たしかに、曲をつくる場合、まず意思がある。意思なしには音楽作品は存在しえない。作曲というのは何らかの意思を音として具現化する作業のことだ。何もない空間に突然音が置かれるわけではない。はじめに意思でもって「こうしたい」という構図が描かれ、それを元に曲が形づくられていく。たとえ作曲者が意思を排除しようとしても、意思を排除する、ということを考えた時点でそこには「意思を排除する」という意思が誕生してしまう。また、私が歩く音を誰かが録音して発表したとしよう。それは私の意思とはまったく関係のない出来事ではあるが、「当事者の意思がふくまれない音楽」という録音者側の意思がそこにはある。以上のように、構造的に音楽作品には制作者の意思が先立ちざるをえない。

それではその制作者の意思というものはどこからやってくるのだろうか。安い言い方をすれば、制作者の「人生」からだ。クラシック音楽が好きだから。新しい音楽をつくりたいから。モテたいから。たくさん売りたいから。おのおのの理由には、おのおのの「人生」が見て取れる。いうまでもなく「人生」は個人だけで完結するものではない。人格や考えかたの形成は、環境の影響を常に受けつづけている。環境は製作者自身からみて変化しつづけているし、その環境自体も変化しつづけている。「人生」は常に更新されつづけている。

それはつまり、意思も更新され続けているということである。作品に先立つ意思が更新されれば、当然その後の作品の形も更新される。

ではどの時点の意思を「製作者の意思」とすればよいのだろうか?もっともそれらしいのはマスタリングを経てデータとして完成したとき、あるいはCD作品としてパッケージングされたときだろうか。物理的に更新不可能になった時点での意思を「製作者の意思」とでもしておこう。

無限に膨張し続ける「製作者以外の意思」の存在

しかしデータとして完成されたあとも、意思は更新されつづける。それは「製作者以外の意思」という形でだ。作品として一度固定されたあとに付加される意思である。

たとえばレコード会社であれば「たくさん売る」、「たくさんのひとに知ってもらう」、「ミュージシャンの意思を尊重する」などの意思が考えられる。それはイベントの開催や、あるいは広報を一切行わないといった形であらわれる。時が経てばレコード会社からしたその作品への意思はもちろん変わり、それは廃盤やリマスタリング盤の発売という形で見てとれる。

聴き手であれば、音楽を聴いて泣いたり、怒ったり、飽きたりするだろう。音楽作品を聴いて心を動かした時点でその作品に対する何らかの意思が発生する。それは今日の天気や恋人の有無などという直接的事象に結びついた感情かもしれないし、あるいは全く外の世界とは関係なく音から想起されるものかもしれない。たとえばそれを批評という形で具体的に形にしたとしたら、「批評したい」という意思がその聴き手視点でその作品に付加されていることに他ならない。直前に聴いた作品によっても印象は変わってくるだろう。逆に「毎回おなじ感覚で聴けている」としたら、それは音楽を「聴いていない」といえるだろう。

聴き手のなかには製作者の意思を読み解き解釈するものもいるだろう。その聴き手Aが想起した「製作者の意思」はその聴き手にとってまちがいなく大きな意味をもって「製作者以外の意思」になる。また、その解釈を別の聴き手Bが受け取れば、聴き手Bの作品に対する意思は変わってくるだろう。さらに聴き手Bが聴き手Aの解釈に反応することで、聴き手Aにとっての作品に対する意思も変わるだろう。たとえば自分の解釈に相手の解釈を加えるような形であれば「製作者以外の意思」は膨れあがる。また、以前の解釈を破棄する形になったとしても、「意思が変わった」という変遷履歴が刻まれることで「製作者以外の意思」は膨れあがる。そうやって無制限に膨張していく。

ここまでお読みいただければわかるように、「製作者以外の意思」もまた更新され続けている。製作者以外の「人生」も更新され続けているから、これは当然だろう。

そしてこの更新され続ける「製作者以外の意思」には、製作者の意思もまた含まれる。物理的に更新不可能な「製作者の意思」が固定された時点で、製作者の意思は「製作者の意思」からは切り離される。その後いくら製作者が自分の意思を語ったところで「製作者以外の意思」はふくれあがれど、物理的事象として固定された「製作者の意思」は変わらない。たとえ語った内容が当時の意思だったとしてもだ。そもそも製作者はひとりではないし、たとえそのひとりの意思でさえ「製作者の意思」は大多数の「人生」が複雑にからまって構成されているため、個人がすべてを把握することは極めて困難だ。「製作者の意思」には製作者が想定していない「意思」も含まれている。そういう意味で「製作者の意思」というものは、「製作者」という複雑に可変的な群にとっての意思であって、製作者ひとりひとりからすれば「他人」の意思である。

到達不可能なふたつの「意思」

「製作者の意思」は物理的に作品に固定されている。こう書くと「製作者の意思」を捉えることがその作品を正しく理解することだと思えてくるかもしれない。しかしそれには大きな問題がある。「製作者の意思」を「製作者」以外が理解するのは不可能だということだ。「製作者」は我々個人にとっては常に「他人」であるため、「製作者の意思」へは誰も到達しえない。

「製作者の意思」を理解しようと我々が考えをめぐらすとき、そこには「「製作者の意思」を理解しようとするという製作者以外の意思」が発生し、「製作者の意思」への到達を邪魔する。この「製作者以外の意思」を排除しようとしても、「「製作者以外の意思」を排除しようとする製作者以外の意思」が発生する。「製作者の意思」を想定しようとするその行為自体が「製作者以外の意思」となって「製作者の意思」への到達を阻害するのである。

また逆に、「製作者以外の意思」を正しく理解するという方向からの「製作者の意思」への到達も困難を極める。「製作者以外の意思」は「製作者以外」という総体によって常に更新され続けているからだ。

結局「製作者の意思」だろうと「製作者以外の意思」だろうと、「製作者以外の意思」によって更新され続ける限り、到達不可能な地点だといえる。

音楽と我々の「生きた」関係

ここで私は「だからそういうことは無駄だからやめろ」といいたいわけではない。

音楽作品と我々の関係は、「音楽作品」があって、我々がそこに近づいていくという単純な構造ではないということだ。音楽作品は「地点」ではない。音楽作品は我々の存在で成長し続ける線であり、面であり、立体であり、高次元体である。そしてそうでなければ音楽作品はただの音であり、死んでいる。我々が触れ続けるからこそ音楽作品は生きた音楽作品足りえる。音楽を聴くという行為は、物理的に固定された「死んだ意思」を、我々の「生きた意思」によって蘇らせ「生きている意思」にする行為である。そしてまた、我々が「生きている意思」に触れることによって、我々のなかの「死んだ意思」を蘇らせ「生きている意思」へとする行為である。音楽は我々によって生きているし、「音楽」もまた我々によって生きている。

音楽作品を「理解する」ということは、こうした「生きた関係」を認識して音楽との相互関係を肯定的に保ち続けることによって成されるのである。

音楽批評で深まる「理解」

音楽批評を残すということは、ある音楽作品に対する自分の「意思」を物理的に固定する、すなわち「殺す」行為である。しかし自らの手で殺した「死んだ意思」は、自分自身と読者の「生きた意思」によって「生きている意思」へと変化する。そして音楽批評は「音楽作品」という総体に組み込まれ、音楽作品とともに「生き続ける」。音楽批評は―それを公表するかどうかはべつとして―製作者の意思と自らの意思を一体化させる行為であり、音楽作品への強い「理解」へと繋がる、もっとも能動的な聴き手側の行動なのだ。

というわけでは私はこれからも自由に音楽を語っていきたい。もう少し、姿勢をよくして。しゃきーん。

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nego『SANSARA』に、ダブ良く知らないけどワシづかまれた。

ど、ど、ど、どひゃ~~~~~~~~

ワシ、鷲つかまれた。

MAKKENZ経由で知った5人組みのハイブリッドダブバンド。正直ダブってなんなのかいまいちよくわかってなくて、なんかレゲエの亜種みたいに捉えてる程度。でもこの作品はそんなド素人でもド感動できるほどド直感的にド素敵だった。

negoや『SANSARA』については、Qeticのインタビューがかなり詳しい。コンセプトについてギタリストの向山氏はこう語っている。

次の作品ではループ音楽と即興音楽のスケールの大きさを合わせてみること、そして全体を通して踊れるアルバムにすることをテーマに曲作りがスタートしました。

ループ音楽や即興音楽を「ループ音楽」と「即興音楽」という要素として扱うバンドは少なくない。「ループ音楽」でいえば、RADIOHEADの昨年の『The King Of Limbs』なんてまさにそうだし、ゆらゆら帝国も後期はそういう要素が強かった。「即興音楽」でいえば、KING CRIMSONから脈々と受け継がれているプログレの血族がこぞって取り入れている。両方を扱うバンドといえばそれこそ彼らが影響を受けているROVOだろう。

しかし今回彼らは「スケールの大きさを合わせてみる」ことでこれらを次の段階へと押し上げる試みを行った。すなわち、「ループ音楽」と「即興音楽」を扱うバンドではなく、ループ音楽であり即興音楽であるバンドの模索だ。その試みは、#3「Dog Sweeper」でひとまず結実しているように思える。ループするリズムとカッティングに、ギターや電子音などが乗りひとつの大きな流れが生み出されている。今の彼らを代表するといってもいい素晴らしい作品だ。

だけど、ループ音楽と即興音楽で踊れる、って、ある種の民族音楽そのもののような気がするぞ?という疑問もでてくるかもしれない。ここで重要なのは、民族音楽のソレは非意識化でやっていて、negoは完全に意識してソレを行ったこと。たとえ辿りついたところが同じようでも、そこに達するまでの「意識」の違いは、見える景色をまったく変えてしまう。

その「意識」が生み出す彼ら独自の景色、というののひとつは、やはりバンドサウンドなんだとおもう。それもROVOや内橋和久といったジャズや即興に近い意味でのバンドサウンドではなく、ロックとしてのバンドサウンドだ。彼らの音にはジャズや即興にしばしば見られるような高偏差値の嫌味さがまったくない。ただただ直感的に響き、全裸的に感じ得る。

このことはインタビューでも垣間見えている。

――サンプリングや映像などを織り交ぜた楽曲は映画的スケールも感じさせます。negoのエッセンスの源に迫るにあたり、これまでの音楽遍歴を教えていただけますでしょうか?

僕とmitchelは好きなものが似ていて、TOOLやSepultureのようなヘビィでトライバルなバンド、その他にUnkle、Massive Attackなどが共通して話に出てきます。映像を使ったバンドで最初に衝撃を受けたのはdownyでした。

最初にでてきたのがなんとTOOLSEPULTUREである!確かに両者ともトライバルではあるが、完全にロック/メタル界隈のバンドだ。そしてヒップホップ畑であがったのがUNKLEMASSIVE ATTACK!前者はRADIOHEADのThom Yorkeと組んでいたし、MASSIVE ATTACKは例の『Mezzanine』でポストロックばりのギターサウンドを奏でていた。両者ともにかなりバンドサウンドに近いアプローチを取っていた過去をもつ、すくなくとも私の周囲のロック好きにも積極的に受け入れられていたユニットだ。

そしてdownyィィィ!!日本の退廃系アートロックの礎を築いた伝説のバンドだ。確かにdownyの3rdアルバムに収録されている「fresh」なんかは今回のnegoの曲にかなり手触りが近い。

また、公式ページで『SANSARA』にメッセージを寄せている面々を見ると、oaqkやsgt.、OVUMなどインストポストロック勢が目立つ。こうした交友関係からも彼らの音楽基盤が伺える。

そうした音楽背景を持つ彼らなのだから、ダブを基盤しつつも骨太なバンドサウンド然としているのはある意味当然とも言える。そしてその当然が、downyに狂喜し『Mezzanine』で失禁した『Kid A』世代の私の心を鷲つかんでグワングワン感動させるのもまた当然だ。

そしてまた当然、これは音楽背景がバンドに偏っている私独自の解釈であり、ダブ方面からこのアルバムに触れればまったく違った「景色」が見えるのだろう。その「景色」も見るために、もっとダブを聴き深めていきたい。

個人的にかなりツボだったのは#6「Unconscious Dub」。ダブがふくむ倦怠感を退廃的サウンドで過剰解釈したような曲で、日曜夕方に聴くともう意識が混濁してきて全世界がウロボロスに呑まれて腹のなかでドロドロに溶けちまうホワイトスネークなことになってくる。

つうことでダブやミニマルテクノ方面のひとはもちろん、ダブって何?肌つるつるなの?という状態のポストロック好きやなんだったらポストメタル好きも巻き込んでサンサーラしちゃえる素敵極まりない作品なので皆さんぜひとも聴いてください。一緒に解脱を目指しましょう。