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XINLISUPREME『4 Bombs』に存在を覆されて、そして僕は存在できた。

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 ノイズ。

 このひとことに抱くイメージを答えなさい。

 騒音、攻撃、前衛、暴力……

 90年代まで、ノイズはまちがいなくその通りだった。WHITE HOUSEやMERZBOWは現代音楽的な前衛をノイズにこめていたし、ハナタラシなどのハードコアとかかわりの深いバンドはその破壊衝動をノイズとして発現させていた。グロテスクなアートワークや暴力的なライブはノイズをアンダーグラウンドたらしめるのに十分なサブテキストだった。

 一方90年代に、シューゲイザーという概念が登場した。そこでは上述のノイズとはまったく逆の、甘美で内省的なノイズが奏でられた。決定的だったのはMY BLOODY VALENTINEの『Loveless』。彼らがあの名盤を生み出したことで、世界中のロックバンドにノイズが浸透した。

 そうして世界には「破壊としてのノイズ」と「内省としてのノイズ」が誕生した。根本的背景がまったく異なる両者は決して交わることがなかったし、混ぜあわせることもできなかった。

 そして2002年。XINLISUPREMEの誕生。

 イギリスの名門インディレーベルFat Catから発売された『Tomorrow Never Comes』。その一発目「Murder License」に代表される、WHITE HOUSEやMERZBOW譲りの暴力ノイズにポップなリズムとメロディをのせたその音楽性は「XINLI INCIDENT」と呼ばれ世界から絶賛された。ただし、その音楽構成自体は、確かに目新しくはあったが、単純な暴力とポップの混合対比、という構造に限ればそれほど驚くべきものではなかったといえる。それをきちんと作品まで練りあげられるかは別として、正反対におもえる要素を混ぜあわせるという発想自体は以前からあった。メタル界でいえばARCH ENEMYが『Burning Bridges』でデスメタルとギターヒーローを高次元で対比させていたし、OPETHは『Blackwater Park』でデスメタル的攻撃性とプログレッシブメタル的叙情性の融合を完成させていた。ハードコア界では現在のスクリーモの芽が息吹いていた。そういえばTHE PRODIGYだって1997年に『The Fat of the Land』でテクノサウンドとバンドサウンドを一体化させている。

 だが、次の『Neinfuturer』で、XINLISUPREMEは次の段階へと移行する。「I Am New Christ」を代表とする新曲たちは、恐るべきことに、その暴力ノイズ自体に、シューゲイザー的内省や甘美が渦まいていた。メロディやリズムがその働きを支えているのは間違いないが、それはあくまで補佐で、決定的にノイズが美しかった。

 「破壊としてのノイズ」は、自身の怒りや前衛性を暴力的なノイズで表現している。
 「内省としてのノイズ」は、自身の陶酔や感傷を甘美なノイズで表現している。

 しかしXINLISUPREMEは、自身の陶酔や感傷を、暴力的なノイズで表現した。いわば「内省としての、破壊としてのノイズ」ともいうべきソレは、新時代の幕開けを感じさせるのに十分な力を持っていた。

 とはいえ個人製作のwebサイト上でのフリー配信という形もあって、『Tomorrow Never Comes』ほど大きな話題にはならなかった。彼はレーベルを離れて個人製作・個人配信へと移った理由をこう語っている。

<CDリリースの場合、シングルやEPはアルバムのプロモーション作品としての位置づけという商業的な理由や制約を感じていたからです。(中略)今後は音楽制作の全ての時間を至上の一曲作りのためだけに費やしたい(中略)、至上の一曲を作るという今後の環境作りのため、レーベルを離れました。>(ele-king vol.7、2012年、DOMMUNE BOOKS、023ページ)

 こうした彼の音楽制作への考え。ほぼ全ての表現者にとっての理想であり、そして理想でしかないこの選択は決して平易なものではなかっただろう。その後に待ちうけていただろう苦境―それは金銭面を含む現実的な障害やそもそもの「至上の一曲」という遥かな到達点への道のりが、そしてこの選択を選んでしまった彼の純粋さが、「破壊としてのノイズ」に内省を乗せるに至ったと想像できる。

 そして2010年の「Seaside Voice Guitar」。ノイズとリズム、男女ツインボーカルが波のようにゆられながら脳髄に送り込まれてきた。<ラヴソング以外有り得なかった>と語った彼が奏でる愛は、ノイズでありながら、とても儚く、穏やかだった。「内省としての、破壊としてのノイズ」を作りあげた彼なのだ。そこに「愛」が乗れば、そうなるのは当然だった。

 と、そうおもっていた。

 ………違う。

 ……違う!

 違う違う違う違う違う!!

 今作『4 Bombs』の「Seaside Voice Guitar A.D.」を、よりノイズが強調され、よりボーカルが強調されたこの曲を聴いて、認識の誤りにやっと気づいた。いや、気づかされた。

 「Seaside Voice Guitar」は「ノイズでありながら」ラヴソングなのではない。ましてや「破壊としての、内省としてのノイズ」なんてものも存在しない。「Seaside Voice Guitar」は、ただの「ラヴソング」だった。ノイズはただの「ノイズ」だった。

 MERZBOWやハナタラシのノイズ、シューゲイザーバンドのノイズは、結局は表現の手段だった。MERZBOWこと秋田昌美の曲たちは聡明な理知に裏付けられている。ハナタラシはノイズ以外の方法でもその破壊衝動を発揮していた。シューゲイザーバンドはその音に自らが酔っていた。彼らが彼らを表現するのに――語弊を承知でいえば―「たまたま」ノイズが最適であった。そういう類のものだった。

 だが、「Seaside Voice Guitar」で奏でられるノイズは、こうしたノイズとはまったく異質だった。

 彼は「至上の一曲」を目指している。だが、それは一体どのようなものなのだろうか?一体だれが判断するのだろうか?そう、それは彼自身でしかない。彼の目指す「至上の一曲」は、「彼にとっての至上の一曲」でしか有り得ない。そしてその一曲は、言うまでもなく、寸分の狂いもなく彼自身の内面と直結していなければならない。

 彼の曲を聴いてもらえばわかるように、「彼にとっての至上の一曲」は、ノイズで構成される曲であるだろう。そしてそれは、彼自身の内面が、「ノイズ」であることを意味している。それは彼のこの発言からも伺える。

<「Seaside Voice Guitar」の歌詞に出る夢の話は10歳前後の頃に見たんですが、大人になってからは、すっかり忘れていました。しかし歌詞を書こうとしたときに、突然急に思い出して。(中略)その夢に出てくる相手が空声でつぶやく内容は分かりました。まあそれも僕の心の声なんでしょうけどね。>(ele-king vol.7、2012年、DOMMUNE BOOKS、027ページ)

 「Seaside Voice Guitar」の、歌詞だけではなく、奏でられるそのノイズも彼の「心の声」なのだ。

 「破壊としての、内省としてのノイズ」なんてものは存在しなかった。彼は、ただ彼の内面をそのまま音にしたに過ぎない。彼の内面世界では、破壊的なノイズが当然のように渦巻いているのだ。感情そのものが、あの暴力的なノイズなのだ。あの暴力的なノイズをもって、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、そして、愛するのだ。だからこそ、我々の感覚では対立すべきはずの要素が何の違和感もなく混じりあっているのだ。

 私と、これを読んでいる貴方は、おそらく同じような「やり方」で「感じている」。そうおもうのが普通だ。しかしそうであるということは誰にも証明できないように思える。そしてそうでないということも。だからこそ彼らの音楽を始めて聴いたときに我々は衝撃を受けるのだ。その衝撃は音楽自体へのものではない。自分が感じている、普遍的であるとおもっていた「やり方」が、実はまったく普遍的ではなかったという、認識そのもの崩壊によって引き起こされる衝撃なのだ。哲学領域で論じられているクオリアなどの認識論を、音楽という具体的な出来事として突きつけられたことによる衝撃なのだ。そして認識の崩壊は、聴き手自身が肉体や思考レベルを超えた、存在レベルで唯一であるということの証明にもなる。彼の「ノイズ」は、彼自身の「唯一性」をもって、我々の「普遍性」を崩壊させると同時に我々の「唯一性」を生み出しているのだ。

 XINLISUPREMEは純粋に自身を音楽で表現した。結局たったそれだけのことだ。だがそのたったそれだけのことが、ここまで唯一の類稀な音楽を生み出したのだ。

 才能でもない、個性でもない、ただ、「そう在った」。

 さて。

 ノイズ。

 このひとことに抱くイメージを答えなさい。

 ――「彼」、自身。

※音量注意

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